乱調

 会いたくなれば会いに行き、知りたいことを追いかける。そんな風に生きられない人々がいることを闇慈は知識として知ってはいたが、そのことで心を痛めたことはない。たくさんのものを選ぼうとするから苦しいのだと解っていた。花と実、故郷と自由、等等、闇慈の人生にはどちらか一つきりしか選べないものが多くあり、そんな選択ばかりしてきた今では、後悔もしない。胸のうちの見晴らしがよいことは、漂泊していく上で大切なことだと、いつも感じている。

 安宿の3階の部屋の窓枠に腰掛けて本を読む。昔のお坊さんの日記で、他愛ないことばかり書いてあるのだけど、どうも頭に入ってこなくて、のたくった文字が文字に見えない。そういえば、ここ三週間ほど姿が見えないやつがいる。最近ずいぶんシンプルに暮らしていて、酔って眠ったり、悪い油とフィッシュアンドチップスを食べたり、していないのは何のためか、闇慈は三日ほど前に思い当たったところだ。
 一月前には三日とおかず、訪ねたり、訪ねられたりしていた男。酒豪で、楽天家で、軽薄で、刺激の強い遊びが好きで……そういった要素が混ざりあい何がしかの化学反応を起こした結果なのか知らないが、アクセルは俺のことが好き、だそうなんであって、それは俺があいつのことを大事な仲間だと思うより、もっと尋常じゃないことらしかった。
 らしかったなんて言ってみても、意味が解らないわけではないし、ただ、闇慈が解らない顔をしていれば、アクセルはそこを無視して踏込んできたりはしない。過剰なちょっかいにも慣れれば慣れるもので、二人は友人として、かなり上手くやっていた。とりあえず、闇慈はそう思っていた。
 普通に考えたら、アクセルは今この街にいないんだろう。あいつは存在自体が軽薄な男で、時間と空間にだってしっかり立っていられないんだから、姿を消すなんていう程の異常事態でもない。
 誰か会いたい人がいればこちらから出向けばいい、居場所は探せばいいと闇慈は思っていたけど、アクセルはその範囲からも零れ落ちていた。それを、勿論どうにかしてやりたいと思う動機の中に、元の時代に、恋人のもとに帰るという普遍的なしあわせに対する信頼以外の、もっと卑近な感情があることを、その意味を、闇慈は見定めかねていた。

 そんな訳で、ここ数日、安宿の窓辺で本を読んでいる。

   結局、読書に集中したらアクセルのことは忘れた。嫌に文字が見にくいことがふと気になって顔を上げると、もう日が沈む頃で、西日の差し込んだ部屋は橙色でいっぱいになっていた。
「おーい」
声をかけられて、思わず「あ!」と口に出てしまう。
「水羊羹買ってきたから、お茶いれてくんない?」
いつからいたのだろう。窓の下に、夕日を受けて益々こんじきの髪をなびかせた、アクセルが立っていた。笑っていた。彼が受ける初夏の風に吹かれていけないほどの重さのものを、自分の心は持てないはずだったけれど。
「麦茶ね、アイスの」
「いいから上がれよ」
そういうと、アクセルは建物の角に消えた。表に回ったのだろう。そして彼が手に持っていた紙袋のロゴ、女性に混じって菓子屋の行列に並んだらしい。いかにもアクセルに似つかわしい。そんな手土産を持って、昨日も会ったような顔でいるのだ。

 この胸のうちの複雑で、不純なもの。創造されえぬもの。アクセルが闇慈にもたらしたものだった。彼が理不尽な運命を与えられ、つかわされたことが、自分を少し不自由にした。そして間もなく、アクセルが階段を上がってくれば、その髪がこの部屋に僅かな光を呼び込む。本当は、アクセル自身が選ばなければならないことが少し気の毒だった。
 ドアの向こうに靴音が聞こえる。


おわり