ヴォイド
| どうでもよい。何て下らないのだ。最初に二つほど厭世的な言葉がどろどろと吐瀉物めいて流れ出した。まず前者に補足しておくと、考えに煮詰まった上での諦観である。後者は単なる愚痴である。口にすること自体が下らないような。 おれはコタツの中で尻をずらした。骨張っているせいですぐに痺れるのである。それにしても不健康。極めて不健康である。逆に不健康を窮めたといいたい。通気の悪い部屋にはエナメル塗料とアクリル塗料と溶剤の混ざったトリップしそうな空気が満ちている。そろそろ頭痛がしてきてもおかしくはない。こんな空間が二日ほど継続されている。いや、昨晩一度だけ寒さを堪えて窓を開け放したから、脳が溶け出すにはまだ早いはずである。しかし思い切って溶け出しちゃった方がよいのではないか。おれは自分の脳に語りかけようとして、踏みとどまった。自問自答はいいが独り言はいけない。いらえが返ってくるようになったらもうオシマイであるから、大丈夫。おれはまだ正気だ。 とはいえ、世間的に見ておれが正気であるかどうかは甚だ怪しい。こういう不健康な思想に染まる年頃というのは、あるにはあるのであろうが、唯我論のように。如何にも思春期的に真っ青な悩みである。自意識に押し潰されて死にかけてりゃあよいのである。二十歳ごろにはそんな自分が痛々しく嘲笑的に思い出されることであろう。三十路も過ぎればそんなことも青春の一ペエジ、というものである。でも何だかおれの場合は年頃という期間で消え去る気配がないのである。 一番近い気持ちはニヒリズムであろうか。そう思って取り敢えず辞書を引いてみると、どうも宗教だとか文学だとか大層な解説がなされていて、おれの考えとはどうも違う。これはまだどこか救いを見出したがっているような思想である。 おれはフィールドグレイで塗ったヘルメットをドイツ兵の頭の断面に接着した。片膝をついてしゃがんでいる割に、両手が失敗した幽霊のような中途な位置で前後している。そこへシュマイザーを握らせると、非可動のプラスティックモデルの奇妙な硬直に説明がつく。屋外との温度差の激しいこんな部屋では接着剤もすぐ乾く。 初めはこうであった。世界の中で自分は一体どんな価値を持っているのかと。淡い期待の混ざった夢見勝ちな自問である。暫くすると段々擦れてきて、最も簡単な答えに行き着く。世界の中でイチ個人など無価値である。個人は集団に溶け込んで初めて他者に価値を齎すものである、しかも集団に溶けて価値を生み出すような〈個人〉になり得るのは途方もない偶然に射止められた一握りであると。少なからず人間は自分が特別だと思いたがる傾向にあるが、おれは幾つか自分に就いて考察を試みた結果、自分には人に誇れるような才能も偶然を掴み取るような強運も持ち合わせていないことに気づき、思春期早々に投げやりになった。最初の挫折である。 ベニヤ板にデコレーションされた戦場にぽつんと置かれた孤独なドイツ兵は、後世にも傑作と呼ばれているらしいサブマシンガンをしっかり握り締め、碧眼を屹と平野の先の巨大なコーヒーマグに向けている。マグの柄のキュートに笑った髑髏も、こうしてみれば親衛隊の髑髏章に見えないこともない。おれは彼の敵を作りにかかった。ジュー(ユーデ)か、ライミーか、ヤンキーか。 次にもう一段階上の、人類誕生の意味を考えはじめた。元はといえばこれが間違いのもとであった。こんな深遠な問題は物好きな哲学者に任せて、分相応に受け流していれば今おれはきっと不景気ながらに平和な、世間並みに溌剌とした青春を過ごしていたはずである。兎も角。そうやって改めて考えてみると人類誕生に意味はなかった。イヴは遠いアフリカの地で無意味に生誕した。その後無意味増えた人類は殺し殺され殺し合っては交尾しまくって更に無意味に増えた。そうやって無意味に増えては未だに殺し合っている。少々自慰的な理由が付加されただけである。 何故かという自問に答えるために更に一段上を考えた。生物の誕生した理由である。矢ッ張りこれも無意味であった。太古の海に無意味に生じたアメーバだか何かは無意味に進化し分化し地球の環境を構成した。ここまで来ると既に意味を付加する意志が存在しないので、地球誕生の理由だとか宇宙誕生の理由だとかは論ずるだけ無駄であるように思う。 例えば神が居たとする。昔のドイツ人の言を借りればもう死んでしまったらしいが、黎明期の話であって現在に居たところで何の意味もないのでさて置く。神という呼び方が適当でなかったら、超越者とでも呼ぶような存在である。三人称小説の語り手といえば分かり易い。そのカミサマが光あれとでも何とでも喚いて世界を創ったとする。そこに既に意味は存在しない。超越者はより下等な存在に観察(比較という形で)されるからこそ超越し得る。世界生成の当時は多分カミサマしかいないのであろうから、それがどんなに高邁な理由を以って、或いは暇潰しにでも世界を創ったとしても、観測がずっと後に生まれる無意味な人類の妄想という形以外を取れない以上は、要するに無意味である。 ユダヤ人ということにしておこう。シンボルとして一番シンプルな被害者であるし、どうせこの茶番じみた模型達を観るのは俺だけであるから何処ぞの組織に命を狙われる謂われもない。しかしユダヤ人の模型があるわけでもないので、アメリカ兵の人形に少しヒゲを描き足す。更に悪ふざけのように装備品をつけないオリーヴドラブの背中にスカイブルーで六芒星を描く。胸部に厭にリアルなクリアレッドのアクリル塗料を飛び散らせ、ドイツ兵の前に立たせる。 そもそもカミサマがいたとして、一体何で人類など創造したのか。何故にこんなに愚かしい人類の構成する腐った社会を放置なさるのか。大洪水はいつ起こるのだ。カミサマが人類の浅知恵など及びもつかない思考法で行動しているとしたら、やはり同じである。観測出来ない以上は存在しない。理解し得ないものは存在しなくても同じなのである。誰も何も居ない荒野で木が倒れてもそこに音がしたかどうかは分からない。ブツリテキに音はしたに決まっているとか鼻息荒く主張する石頭も時々いるが、思考出来る観測者が人類以外いない以上は客観など存在しないのであって須く主観なのであるから、関知出来ないカミサマなど存在してもしなくても変わらない。勿論存在するのなら、見つけ次第ぶち殺す。 そういったわけでおれは高校生くらいで絶望した。全くやる気が失せた。気力が湧かなかった。死のうと思った。などというと世間の人たちから見ると青臭い現実逃避だとかいわれるのであろうが、全人類の価値観は無意味な世界という砂上の楼閣の上に存在しているのであって、要するに世間だとか社会も無意味の上に無意味を塗り重ねた産物であるのだから、全く馬耳東風であった。とは言い切れない。この結論に辿り着くまでの間におれは随分この世界に馴染んでしまったからである。無意味に自分の死んだ後を考えてみたりするから、結局死ねずに今に至っている。凄く下らないと思う。 ここは国防軍より武装SSの方がよかったかもしれない。まあいい。斯くしてダヴィデの末裔の胸郭は金髪碧眼頭脳明晰逆三角形ゲルマン系アーリア人の放った九ミリパラベラム弾で撃ち抜かれた。これだけでは只のホロコーストの光景である。面白くも何ともない。喜ぶのはスキンヘッドだけである。 そこで、ダークイエローの野戦服の頭に端布のターバンを巻き、アラビアンな兵士を再現する。ハーフパンツなのは元の所属がアフリカ師団であるから。ご愛嬌である。その手にドイツ兵に付属していた短剣を持たせる。どちらかといえばカラシニコフより時事的である。訴訟モノの不謹慎さではあるが。 序でにいうと死後の世界も信じていない。これに関してはどの道死後の観測を証明し得ないので根拠はない。しかし今まで使ってきた論理でいうと観測出来ないものは存在しないので、という理由にしておく。死んだら、意識が途絶えてそれ切りであろうと思う。だから死はそれほど怖いものでもない。怖いのは死ぬ前の苦痛や自分の死後も生きている人達を考えることである。しかし死は消滅というおれの主張に従えば、死んだ後は世界を関知することが出来なくなるから、死後の心配などするだけ無駄であるが、おれが死ねないのはその辺の恐怖が係わっている。天涯孤独の身の上であったら何の躊躇もなく爆笑しながら屋上からダイヴを敢行したい。 生憎とおれには、それがない人間に対しては何とも贅沢な話ではあるが、両親も祖父母も親族も、剰え彼女までいる身の上である。こんな腐れた人間でも心配してくれる人がいるらしいのである。不思議なことに。そういうわけで恐らくこれからもおれは自殺なんぞ出来ないであろう。浮き世の人々に分かりやすいようにいえば、小心者なのである。 短剣の刃をニッパーで切って切り口にクリアレッドをちょんと塗り、前のめりに立たせてドイツ兵の首に短剣の切り口を接着する。こうしてイスラム過激派が出来上がった。イスラム教徒とドイツ軍が険悪などという話は聞いたことがないが、ローマ教皇とナチ公は仲がよかったようであるから、アッラーの御敵には違いあるまい。尤もユダヤ人殺しを只誅殺していては、人道的には兎も角原理主義的に間違っているから、もう一体武装組織人形を作って、MP四〇の餌食となったユダヤ系アメリカ人の背後から襲わせる。こちらは匍匐していた人形を無理矢理立たせたものであるから、蟹股で滑稽な感じになった。そういえばイスラム教圏もアーリア人が多いようであるからして、ここでユダヤ人を攻撃するのはナチ的であるともいえるかもしれない。 これまで考えてきたことを纏めてみると、この世は全く無意味であるがゆえにおれは全ての情熱を失ってしまったというわけであるが、これだけでは単に言い訳に見えなくもない。しかしこれが第二の挫折であったのは事実であるから仕方がない。 そういった考えの延長で、ニヒリズムの訳語にも使われている〈虚無〉に就いても考えてもみた。この世界の存在意義は、無意味の上の意味という虚無の上に打ち立てられているのであるから、そのいわば世界の土台に就いて一考してもよいのではないか、と思った次第である。 虚無は神と同じである。何故なら存在しないからである。虚無とは完璧に何もない状態であるが、その状態は世界の何処にも存在し得ない。世界は隅々まで物質に溢れているから、存在しない状態は存在しないはずである。科学的見地がどうなっているかは知らないが、何れにせよ人類には係わりないことである。つまり虚無は概念であるといえる。数学と同じである。我々の世界には完璧な直線とか球体とか、物質的に完璧なものは存在しないから、全能の神が存在しないように完璧に『何もない状態』は存在しない。 少し脱線するが、全能の神が存在しない理由は、有りて有るものだとか諸々の神が自分に似せて人類を作ったことに尽きる。全能の神であれば完璧な人類を作れたはずであるから、我々無能な人類をお作りになった父なる神も又無能である。ノア以降人類を罰しようとしないのは好意的に見ればきっとその辺を学習したのであろう。或いは死んだのである。おれはカミサマが蕁麻疹が出るほど嫌い(ディスライクではなくヘイト)であるから後者の方が好ましいが、さて置き。こういうことは世界矛盾代表である一神教よりもアニミズムに近い多神教の方が潔い。産褥で死ぬイザナミだとか浮気性のゼウスだとか(どちらも最初の神ではないが)初めから完璧な〈神々〉は存在しないからである。尤もこういった神々は個々の自然現象が人格化して生まれたらしいから、行動原理は人間と同じである。何処かの狂人の妄想から生まれた一神教より自然な感じがする。 ユダヤ人をホロコーストする半世紀前のドイツ兵と彼らの首を狙う二十一世紀のイスラム過激派という悪趣味なシュールレアリスム全開の三十五分の一スケールディオラマが何となくできてきた。まだ何か足りない気がするので、おれはカッターで紙を切り抜いて型を作り、ディオラマの地面に置いて、エアブラシで文字を噴きつけた。最初に『アッラーアクバル』と描いた。勿論右から左に書くなんて器用な真似は出来ないので、カタカナである。 そういえば宗教も嫌いである。当然ヘイトの方で。何でここまで宗教に抵抗があるのかといえば、多分その理由の半分くらいは日本人の大半が感じている宗教に対して持つ胡散臭い印象のせいであろう。似たような外的要因からいえば、『あなたのために一分間祈らせてください』とか『アナタワァカミウォシンジィマスカァ?』とかいう憐れな子羊から『不幸になりますよ』系の見つけ次第十字架にかけて酸っぱい葡萄酒を飲ませたくなるような糞どもとか、駄々を捏ねて民間人の首をゴリゴリ落として正義を喚く確信犯な糞どもとかがそれに当たるが、内的要因では『宗教なんぞ人生を健康的に生き抜く手段という名の現実逃避に過ぎんのじゃないか』というネガティヴな思考がそれである。 おれは髑髏のマグから冷め切ったコーヒーを舐めた。それでも死ねないと諦観した以上生きていくのであれば宗教は必要なのではないかとも思う。確かに現実の無意味性に妥協すれば、砂上の楼閣の住人となるほかないわけであるが、矢張り今更神は信じられない。以前に物心ついたときから神さまの存在を感じられた、という物凄く羨ましいクリスチャンの友人がいたが、彼女のような恵まれた環境でなければ現代の日本人が宗教に親しむことは出来ないであろう。余程に純粋な心の持ち主を除けば。 次に作ったテンプレートは右卍、というか鉤十字である。ディオラマの周囲にフラットブラックで噴きつける。段々バカみたいになってきた。次はユダヤらしくヘブライ語でも作ろうと思い、ヘブライ語で安息日を意味するらしい『SABBAT』を切り抜く。しかしこれは英語である。原語など知るわけがないし当然これ以外のヘブライ語(もといヘブライ語由来の単語)も知らないのである。ゴールドリーフで噴きつけると余計に頭が悪そうに見える。 仏教ならばまだ親しむ余地があるが、大乗とか小乗とか矢ッ張りテーマは死後の救済であり、おれには何の救いにもならない。死後の見返りを目標に苦行に堪えるようなものではなく、現実を穏やかに生きられる宗教というものはないのであろうか。多分ない。 そういう結論から見るに、おれは宗教なしで生きていくしかないようである。難儀なことである。期待出来る見返りは表層的な意味以外何も持たない糞のような代物しかない世界で只苦痛を味わいつづけるために生きなければならないのである。おれはマゾヒズムとかそういう類の愉快な趣味は持っていないので何とも憂鬱になる。やる気が失せる。気力が湧かない。努力出来なくなる。投げやりになる。命を粗末にする。自虐的になる。いじける。だらける。自堕落になる。不規則になる。いいことなど何もない。自分のことを考えてくれる人がいるというだけの如何にも馴れ合い的な〈見返り〉を信じて人生にしがみついていくしかなくなる。至極不愉快である。 思い立って、ドイツ国防軍兵士にチョビ髭を足した。もう滅茶苦茶である。統合性とかそういう美しさが感じられない。常々思うのであるが、一般人には批評家の言を通してしか理解、いや鑑賞出来ないような芸術作品(例えばキュビズム等の抽象画)などは、本当に作者も分かっていて制作しているのか疑わしい。ヴィジョンはあるとは思うが、所詮解釈をつけるのは鑑賞者、観測者なのである。よってこの分裂的なディオラマ風オブジェクトは我が家に永遠に封印し、来たる死期に際しては真っ先に処分せねばならぬわけである。 まだ足りないのではないか。おれは首を傾げて、段々酸っぱくなってきたコーヒーを啜る。昨日の朝淹れてポットから注ぎ足し注ぎ足ししてきたのであるが、最早嗜好するのではなく機械的に飲み干そうとしている。放置しているのはコーヒーだけではなく、昨日は風呂にも行っていない。全く動いておらず大して汗もかいていないであろうが、鼻の頭は皮脂栓でがさがさしてきたし、何だか頭が痒くなってきた。コーヒーしか入れていないから胃も痛みはじめている。確か一昨日買った三百円のカップラーメンがあるはずである。喰ってからきっと幻滅するに違いないと思いつつカゴに入れたのであるが、空腹なら何でも旨いはずである。結局何が足りないか分からない。 高校のとき担任の国語教師が、古典文法を覚えさせるときに何度も『人間は面倒臭いことが嫌いですから』といっていた。尤もである。おれは生来面倒臭がりであるから(〈挫折〉の前からそうであったのだ)、報われない努力などするはずがないのである。中学時代は人間関係が面倒になって行くのをやめたが、高校時代にはもう将来を諦めていたから行く気が失せた。一応は卒業したものの、大学へ行って俺はどうするのだと虚ろな気分で考えていた。確固たる目的を持って進学する若者もそう多くはないとは思うが、そうでない者も何とはなしに社会に組み込まれてゆくものである。そして相応な歳になれば『イマドキの若いモンは』と嘆息するわけである。しかしおれは自分が社会に貢献出来るとはどうにも思えないのである。寧ろ危険思想を持った害毒であると思う。組み込まれたくないだけかもしれない。兎も角。 コタツから這い出した序でに携帯電話を見ると、メイルを受信していた。マイナーな会社のかなり古い機種のそれは受信にいちいち時間がかかる。携帯電話を片手に立ち上がって立ち眩む。血の巡りの悪い人間が三食ほど抜いているのであるから当然である。眼の前が少し暗くなる。このまま視界が真っ暗になると少し具合が悪いから、頭を出来るだけ下げて受信したメイルを読む。彼女からのメイルである。『今日はこないの?』。そうだ。今日も今日とてサボタアジュを敢行しているのであった。接続を中止すると携帯電話を投げ出し、マグを取って残りを飲み干しながら流しへ持っていき、渋がつかないようにすすいで水を溜めておく。 自殺に就いても色々と考えてみた。大凡自殺する動物は人類だけである。よい方に考えれば唯一自然摂理に反逆出来る動物であるといえるが、悪い方に考えれば人類は自然社会の落伍者に他ならない。無意味性などを無視したときに生物の最終目的は生殖であるから、自ら生殖を拒んだり生殖目的以外のセックスをしたりするのは最高に無意味であるが(同性愛に関しては人類以外で起これば必ず淘汰されるので例外ではないかと思う)、自殺という行為は無意味を通り越して害になるのではないか。寧ろ〈砂上の楼閣世界〉でのルールから見れば淘汰であるのかもしれない。この世界は無意味であるが無意味の上に築いた意味の上で生活する者にとっては自殺志願者は異物であろう。そういう異物が自ずから排除されれば〈砂上の楼閣世界〉はいわば完璧に成立する。 この絶望主義とでもいえそうな思想に於ける自殺は少々他の自殺とは異質である。『世を果敢なんで』とか『何とかを苦に』とかいうのはまだ何処かに、当事者とは違う場所には希望があるであろう。『誰か殺してくれ』などと抜かすおれ以上の腐れ外道も時々いるが、そういう連中とか『近づいたら飛び降りるぞ』とか騒いでみるような戯けた糞どもは結局死ぬ気などないのである。誰かが自分を見て止めてくれる、自分は必要とされている、などという下らない希望(妄想)があって、慰めてほしいだけなのである。単なるナルシシズムである。自意識自体が元々脳の自慰的なナルシシズムではあるが。おれは無意味が嫌いだから死にたいのであるが、これもまあナルシシズムである。 そもそも〈砂上の楼閣世界〉に生まれたのであるから、脳にこういう考えに到達しないような防衛機構があって然るべきではないのであろうか。他の自然物は極々合理的に出来ているというのに、人間だけは歯車が噛み合わない不良品ばかりである。嗚呼何タル不条理ナルコノ浮キ世哉。おれは矢ッ張り何もかも厭になった。 取り敢えずは空腹を満たして一時の安息を得よう。おれはカップラーメンの過剰包装を破り、蓋を開けレトルトの具と加薬、調味油、二種類のスープを取り出した。粉末スープと加薬を空け、残った三つを蓋の上に置く。待ち時間に温めておく庶民の知恵である。熱湯五分と書いてある。流石三百円である。侮れないではないか。おれは湯を沸かすべく薬缶を、薬缶がない。ファックオフ! |