そこで苦り切る(壹から廿伍)

壹『ロスト』

 会話の最中だったが、不意に私は独りになったと感じた。しかしそれで終わりだった。単語以下のレヴェルで途切れた言葉に怪訝そうな顔、顔、顔。立ち上がった私は何でもないように首に手をやり、関節を厭な音を立てて鳴らす。そして、うーん、と唸って伸びをした。
「何……?」
 更に首を傾ぐ。もう関節の軋む水っぽい音しかしない。
「いや、別に」
 傾いて膝の辺りに引っかかっていた椅子が大きな音を立てて倒れた。私は明後日を向いて、呆然とした空気を感じていた。私こそ茫然であるが、既にがしゃーんという合図は教室を凍らせている。
「そんなものか」
 机の上に立つ、窓枠に足をかける、飛ぶ。三つの動作でそこは天国だった。


貳『懊悩』

 ばりばりと音を立てて自分を引き裂いた。


參『エスプレッソ』

 こういうものは中々ない。これには三通りの味わい方があるのだ。まず、熱い内に湯気ごと啜る。次に、適温を楽しむ。最後に、冷めた液体を不味そうに嚥下する。俺は何だか釈然としなかった。眼の前のデミタスカップに注がれた珈琲のエッセンス――地獄のように黒く、死のように濃く、恋のように甘い一杯のエスプレッソ。冷めるがままに放置されたエスプレッソ。俺の手は膝の上だ。ソーサーには擦っても落ちない渋。間違っても砂糖など入れない純粋なるエスプレッソにティースプーン! 死ね! 俺は温くなったエスプレッソをひと息に飲み干した。咽喉を駆け抜ける苦味、口の中に溢れる芳醇な甘さ。これは珈琲界のスピリタスだ……。
 絶頂に達した俺は気管に侵入した全てを吐き戻した。デミタスカップには嵩の増えたエスプレッソが揺れていた。


肆『そこで苦り切る』

 なんてことだ。呟きは舌に削りとられる。胸倉を掴まれたままではなす術もない。あたしはそれを厭とも思わなかった。相手、悪くない。場所、最悪である。何といっても便器の上である。蓋の上に座らされている。口が塞がっている以上鼻で息をするしかない。そうすると当然、清掃済みとはいえトイレの可憐とはいいがたい芳香があたしを楽しませてくれるじゃないか。くらくらしながら相手のネクタイを緩めにかかる。
 しかしなんだこの、珈琲臭さは。胃に焼けつくようだ。くらくらするのは空腹のせいかもしれないが、もしかしたらラヴェンダーの極悪な消臭剤かもしれない。鼻がむずむずしてきた。不味い、くしゃみが出る。くしゃみ。あたしは苦しそうに鼻を鳴らしながら口吻を押しつけてくる鼻炎持ちを引き離そうと試みた。遅かった。圧迫された空気が破裂したのだ。ネクタイを掴んでいたのが更にいけない。内圧の上がった奴の頭蓋は木っ端微塵である。
 あたしはひたすら珈琲色の鼻水を流した。


伍『首の廻転』

 最初は懸命に振り返ろうとしただけなんだ。僕はここに弁明する。そうしたらごき、ごきといいはじめて、終いにはぐるんと首が廻った。ぐるぐると廻る世界に不思議と僕自身は楽しかったのだけど、周囲の反応は違った。悲鳴を上げたり叫んだりしていた。酷いのになると嘔吐に失禁、気絶にショック死と何でもありだ。廻転する世界で色んな吐瀉物を見たのだが、そのどれもが昼に食べた「グリーンカレー」と酷似しているのを見て流石に気分を害した。
 僕の首はそのまま廻りつづけ、終いには捻じ切れて地面に転がった。されど廻転は続く。ころころと転がっていく僕の首は道行く人を蹴散らしながら(訂正だ。彼らは逃げ出しただけである)道路まで転がっていった。勿論やってくる自動車が僕の首を跳ね飛ばす(言いそびれたがこの場合僕の首とは僕自身のことであって、首の下にあった僕は既に思考を停止しているというか元から筋骨の集合でしかないわけで切りはなされた以上は僕自身とは訣別した存在である。グッバイ。だけど僕自身とは僕の首のことであるため、この先も同じ表記にする)すると僕の首の廻転は加速し、周囲のものが視認不可能な状況に陥る。
 地面に着地、二回弾んで僕の首はタイヤでミンチになった。
 しかし僕の眼球(眼球は僕自身とはいえないかもしれないが世界中の光の屈折を取り入れているのだ)はそのまま廻転を続け(以下略)


陸『さりとて』

 俺は小説を読み終え、とんとんと原稿を揃えた。眼の前には俺より背の高い後輩が居た堪れない感じで座っている。
「いいと思う」
「ほんとですか」
 彼は一瞬のち固まった顔を解く。
「雰囲気が好きだ。是非完結させてほしいものだが……」
 あからさまに安心した面持ちで喜んでいる。なんだ畜生。これが出来を心配するほどのものであろうか。確かに自分の作品に対して自信が持てない気持ちは分かる。痛いほど分かる。そんな気持ちにならない作品は今までに一度だってないのだ。完璧などこの世には存在しない。瑕疵は幾らでも転がっている。傲慢という向上心の消失に酔っているのでなければ、おいそれと自分の作品に対して満足など出来るものか。
 さりとて一生に一度くらいはそういった作品を創りあげたいと思うのが職人魂というものなのではないか。少なくとも俺はそう思うのである。
「……ところで、友達できた?」


漆『ディス・イズ・ザ・ニュー・シット』

 私は立ち上がって力の限り叫んだ。それはもう咽喉も枯れよとばかりに、である。しかし十隻目の船は虚しく通り過ぎていく。
 これだけ叫んでいるのに、実際は囁き声の方が咽喉を使うらしいのだ。何という理不尽。カラオケで実証済みであるから間違いないはずだ。カロリー消費は確かにウィスパーヴォイスの方が勝っていた。つまりより遠くへ伝わる割には体力を消費しないシャウトの方が発声としてはお徳なのかもしれない。
「カラオケ!」
 私は朦朧として意味のないことを考えながら意味のない叫びを上塗りした。声を出す辛さを知ってしまったこの上は、無事祖国へ辿り着いても二度とカラオケなどには行くまい。いわんやラウド・ミュージックなど。
 咽喉を撫でながら砂浜に膝をつく。日に焼けた膝に当たる砂の感触は、砕け切らない珊瑚の欠片である。見渡す限りの青い海、空、そして純白の砂浜。私のプライヴェート・ビーチ。勿論喜ぶべきことなど一つもないのだ。振り返れば森に突き刺さった飛行機と死屍累々。黒暗々たる蝿の塊。
 私の乗った飛行機が墜落してから早、一週間が経とうとしている。幸か不幸か墜落先は熱帯の島、絶海の無人島である。そこにあるのは美しい自然、美しい自然、美しい自然……。東京の薄汚れた空気が懐かしい。あれだけ厭うていたセンター街の名状しがたい腐臭など胸いっぱいに吸い込みたい。いや、嘘だ。
「カラオケ……」
 やっぱり帰ることが出来たらカラオケに行こう。皆を誘って。恋人が居てくれればなおよい。でも誘うべき友人や恋人は軒並みが後ろの鉄屑の中で挽肉になっている。
「挽肉か……」
 母さんの作ったハンバーグが食べたくなってきて、私は水平線を恨めしく睨んだ。


捌『腐敗』

 ぐずぐずと腐れていくのが分かる。皮膚は黒ずみ、水気を失いはじめる。最初はぽつぽつとシミのように現れた斑点は時が経つごとに肌を浸蝕してゆき、嘗て透き通るようであった肌を覆う。じっと見つめていればその進行が覗えよう。緩慢ではあるが、着実な蝕みである。背中にも死斑が現れていたのであろうが、私は仰向けであったので見えない。勿論私にも。
 やがて微生物の働きで内部組織が分解されだしたのであろう、発生したガスが皮膚を持ち上げ、ホットケーキでも作っているかのようである。炎天下も彼らの働きを助けている。そして肉から剥がれ、脆くなった表皮はぶすぶすと裂けた。腐敗した肉の色が覗く。視界が歪んできている。眼球がどろり。水分を失って萎れた。視覚の消失。世界は真っ暗だ。不思議と苦痛ではないが、身体の崩れていく感触と、身体の崩れていく音、羽音、微生物達が私の身体を分解する音。そして饐えた臭い。そういった愉快でない感覚ばかりが取り残された。どうして意識が鮮明なのだ。私の脳は。とろけて耳から流れ出したりしないのか。
 眩しくはないがじりじりと身体を焼く陽射は夏の訪れを感じさせた。


玖『水底』

 ざぶん!
 ゆっくり沈んでいく。飛び込みの勢いを借りているだけであって、普通に水に入っただけでは浮き輪よろしく浮かぶだけである。僕が持っているのは水中で沈む筋肉などではなく遥かに比重の軽い脂肪だけなのだ。見えてはいないが(見たくもない)、腹の贅肉は水圧で波打っている。美しくない。いや醜悪である。
 だから、なのか、にも係わらず、なのかは分からないが僕は極一般的な美意識を持っている。無論現代的な、ともいうべきかもしれない美意識である。即ち、肥満は醜いと。そんなもの気にしないとか、逆に好きだという人もいるようだが、自分自身で思うのだから仕方あるまい。死にたい。
 地上では重苦しい自分の身体も水中ではまるで別人のように軽くなる。だから水の中は好きだ。けれど眼を開ければ――いや開けずとも感じる脂肪の塊が、安らぎに水を差す。僕一人でないプールから視線を感じる。この視線だって、この身体が例えば隆々たる筋肉に固められていたり、華奢な女の身体であったりしたら。それまでいかずとも平均的な体脂肪率を保ってさえいれば、好意は期待出来ずとも、あからさまな蔑みは免れようものだ。
 沈んでいく。いつもより深い。足が着く程度の水深のはずである。上を見ると水面がきらきらと光っている。綺麗だな。死んでも良いと思った。
 そうしたら、息が止まっていた。これは死んだと思ったが、意識が混濁する中自分の身体が力強い浮力を持って浮かび上がるのを感じた。厭だなあ。


拾『謎かけ』

「それをどう思うか、ということが問題なんだ」
 彼はにこにこしていった。理解出来ない。質問の意図も、その意図も。私は最大限に精密な動きで表情筋を駆使し、不快の念が顔へ表れないよう注意を払って微笑を作った。ひくつきそうな眼輪筋が更に私を苛立たせた。何故私はこんなところに座して醜悪な笑顔を曝しているのか?
「それは……どういうこと?」
 私は素直な疑問で切り返した。どうか答えてくれ。
「勿論その通り、いったとおりの意味で、だよ」
 彼は笑顔を崩さずに答えた。喋り言葉にまで句読点のあるような口調が私の神経を逆撫でする。丸で子供に優しくいい聞かせるように。自分の質問を相手が理解しないのは相手の未熟ゆえとでもいうように。落ち着け私。ここで投げ出してしまえば多分一生理解出来ない。
「そのいったとおり、っていうのが理解出来ないからそれを質問しているんだけど」
 私は逸り煮え滾る気持ちを抑えて、再度訊ね返す。
「だからね」
 相して彼の話は振り出しに戻った。


拾壹『帽子』

 熱気を孕んでなお涼やかな風を受け、私は顔に乗せた帽子を汗ばんだ手でおさえた。然程強い風ではなかったが、夏向きの軽い中折帽は顔の上でぱたぱた動いた。防止の編目から覗く陽射しは眩しく輝いていたが、何処か優しかった。
 透かして見るのは雲一つなく晴れ渡った青空である。距離感のない風景と余りにも近い帽子を比べて見ると、頭がどうかしてしまいそうだ。帽子の中は正に別世界であった。帽子と、その上の空との二重天蓋だ。外の喧騒など最早聞こえてすらこない。風の吹く音だけが耳に届く唯一の音楽であった。
 私は両手を頭の下に組みなおした。すると先程より強い風が吹き、私の帽子を飛ばしてしまった。私は突然直に突きつけられた日光に眼を閉じざるを得なかった。眼を閉じていても見える瞼の裏に太陽の形が油膜に似た色を滲ませて焼きついている。
 眼を開け今度は太陽を見ないようにしてから起きあがる。世界は薄青く染まっている。喧騒はない。辺り一面には死して動かぬ人の群れ。
 虐殺は終わったのだ。私は身体の上に乗っていた死体をどけた。ごろり、と転がった死体。その顔は半分なくなってはいたものの、数分前まで一緒にお茶を飲んでいた隣人のそれに紛れもなかった。
「……ああ」
 力なく嘆息した私の頭に、銃口がごつ、とぶつかった。


拾貳『破壊的衝動』

 何という面相。恐らく、道々に擦れ違う者の全てが彼の容貌をそう評したであろうことは、彼の行く手が常に閑散と開けていたことからも明らかである。
 彼を見たものの眼にまず飛び込んでくるのはその剃り上げた頭である。陽光を反射する皮膚には幾筋もの線が走り、その毛髪の生え得ぬ箇所のために他の部分までもが犠牲にされているのが分かる。視線を下げると、太い骨格の上に乗った眉は殆ど見えないくらいに薄く、冷酷な印象を与えている。そして太く高い鼻、薄い唇にはそれぞれ四つずつリングやらスタッドやらが貫通し、左耳にも又三つのリングとバーベルが軟骨で絡み合い、鈍く光っている。
 極めつけは不機嫌そうに細められた兇悪な三白眼である。やや奥まった二重の眼は剣呑な光を湛えて真正面を睨みつけている。ひとたびこの眼に捕らえられたならば、心臓の弱いものであれば即死を免れることはあるまい。
 更に眼を落として見れば、その凄まじい頭部に似合いの猪首が双肩の筋肉の隆起に埋もれ、衣服は全身の筋肉に押し上げられてはちきれんばかりであった。
 彼は今かなりの苛立ちを抱えていた。それは彼の生き甲斐ともいうべき日課が最近になって阻害されつづけていることに起因するものである。彼の体躯を突き動かす衝動はその岩のような手指をびくびくと痙攣させ、訪れぬ毎日の動作を反復していた。
 不意に彼の足が止まる。求める場所に辿り着いたのである。彼の表情に別の色が加わる。他でもないその暴発寸前の衝動が満たされる期待への歓喜である。そこに前日までの一週間彼を拒みつづけた障害は最早存在しなかった。その破壊的衝動は今正に絶頂に達した。彼は来るべきその瞬間のために逸る足を懸命に宥め、一歩一歩入口を進んでゆく。
 彼の眼前には何十対とも知れぬ爛々たる飢えた双眸が光っていた。彼はごくりと咽喉を鳴らすと、腰を落とし、懐に手を入れた。それを合図とばかりに飢えた群れが彼に殺到する。彼はにやりとして呟いた。
「……今日も平和だなあ」
 そして彼は群がる鳩達に餌をやるのであった。


拾參『予定の調和なんて容易だけど』

 私はもう呆然としていた。銃声はもう聞こえまだ鼓膜を震わせているし、裸電球一つ切りのこの部屋を一瞬照らし出したマズル・フラッシュは残像になって角膜に焼きついている。それに重なって横回転するフルメタルジャケットが酷くゆっくりと私の額に迫ってくる。私がここで死ぬことは最早何の変更も許されぬ決定事項である。スケヂュウル帳にだって書いてあるに違いない。私がこの部屋に入った瞬間それは決まっていたのだ。美しい曲線を描くベレッタを握り締めた男と、それを承知で彼を詰りに来た私。案の定三分と経たぬうちに雷管は火花を散らした。爆発のガス圧が鉛弾をライフリングに削り取らせて銃口から飛び出させるまでの間に私の覚悟は決まっていた。
 死ぬのはそれほど恐くない。先ほどの覚悟とは別に、私がこの部屋に足を踏み入れた瞬間、ドアノブを廻転させる瞬間、ドアノブに触れる瞬間、ドアに向き合う瞬間、立ち止まる瞬間、階段を昇り切る瞬間、様々な瞬間を、私は覚悟を強いられてきたのだ。そういえばエレヴェータを使わなかったのは日頃の運動不足解消のためにと外では階段を使うよう心がけていたのが癖になっていたからだということに気づき、流石に私は失笑を禁じ得なかった。
 その瞬間は、私は迫りくる死を受け入れていた。何故か。そういう予定と決まっているからであろうか。あの鉛弾の到来は息子を遊園地に連れてゆく約束が急な仕事で違えられるように中止出来ないものなのであろうか。遍く予定はより重要な予定により中止されるものだ。殊更採り上げるまでもない法則である。問題はあの金属塊の進行速度と私の生命の継続性のどちらがより重要かということである。
 ああ、でも。そうか。鉛弾は止まらない。回避するなんてやめておこう。所詮私の命にはその程度の強制力しかなかったのであろう。鉛がじわりと額にめり込んでいた。そういう予定だったのだ。私は何分の一秒にも満たぬ間にこれだけの思考を展開させた自分を褒めてやりたくなった。
 脳が飛び散った。


拾肆『(ドアを開ける音を想像せよ)』

 飛び出した。冷房に凍りついた部屋から雲天の蒸し暑い屋外我が身を放り出して漸く、僕は冷静に立ち返った。右手が痛む。靴を履いていないので足裏もだ。財布も持っていない。でももう戻れない。ヘヴィ・メタルの泥臭い絵柄の踊る黒いTシャツと、おろしたてのジーンズ以外に僕を囲むものは何もない。強く唇を噛んで、痛くて放す。ペインキラーも形無しだ。
 空は心証を表すよい道具だが、今の空こそその極みであるといっていい。重く低く垂れ込めた雲は光を拒絶して濁り滞り、雷雨にでもなりそうな風情だ。僕の苛々と不安と虚しさの入り混じった胸中をよく表している。
 感傷に浸ってしまったようだ。僕はため息をつくと歩きはじめた。何処へ行く当てがあるというわけでもない。何処へ行くのだ。昼間の熱を残したアスファルトの上を、僕の足は森林公園へと向かっていた。森林とは言っても、それほど大層なものでもない。ちょっとした山に散歩道と階段をつけた程度のささやかなものだ。日中でも人影は疎らで、この雲ゆきの怪しい午後八時となっては益々蚊くらいにしか出会わないに違いない。今だって一人だが、もっと落ち込んだ一人が欲しかったのだ。
 十分ほどで公園に着く。入口の小さな広場を切れ切れの電燈が照らしている。僕はよくこの公園に来た。この廃れた雰囲気が気に入っていたのだ。一歩踏み込めば伸び放題の梢で薄暗いそこは下界から切り離されたようで、余程自分の部屋よりは、一人の時間を邪魔の入る可能性も少ない。いつもちょっと湿っているベンチには何時間だった座っていられる。
 勿論僕はそこを目指していたのだが。思わぬ障害に足を止める。ベンチのある場所は山の途中に設けられた広場(少々道幅が広くなっているに過ぎない)だ。一応電燈が設置されてはいるが、何箇月も前から切れて久しいことを僕は知っていた。ベンチを照らすのは木漏れ日ならぬ木漏れ月のみであるが、そこに折り重なった二人の人間を浮かび上がらせるには充分であった。
 要は、あれだ。虫除けスプレーとゴム製品が必要な行為が展開されているのだ。僕は自分の立場も忘れて呆れ返った。そしてすぐに眉を顰める。そこは僕の場所だ。聖域を穢された気分だった。
 何処か冷静なのか自棄なのか判じかねる精神状態をいいことに、僕は斜面に転がっていた拳二つ分くらいの石を拾い上げた。近づくまでに感づかれては癪なので、腐葉土の積み重なった斜面をよじ登って迂回する。二人は彼らの行為に没頭していて気づかない。ぶち殺そう。甘美な言葉に思わず笑みを浮かべ、鈍器を振りかぶって斜面を駆け下り二人が顔を上げたところで躓いて両手で持った石に倒れ込んで頭を強打し意識がなくなったのでその後二人が気まずそうに顔を見合わせたのを僕は知らない。


拾伍『トゥモローズ・ネヴァ・カミング』

 朝は訪れた方がいいのか、やはり悪いのか。新月の空には黒雲が立ち込めている。風はあるらしい。地表には星の明かりさえ通らないというのに上空の水蒸気の塊が蠢いているのが分かる。街の灯を映しているのだろう。
 仮令新月でなくとも、曇り空でなくとも、上空の光は何れにせよ太陽の反射であり、その存在を証明し、数時間後に来る朝を予期させるには充分であるのだ。嘆息する。そうであったら迷う間もないのだ。今の空に朝を予感させるものはない。
 やはり悪いだろう。朝は訪れてほしくない。朝日は身体を焼き尽くす。同時にこの生とも死ともつかぬ時間の経過の断絶となるものである。灰は灰に、ということか。それもいいが、私の意思は一体何処にあるのか。終わらせたいのか続けたいのか。それが分からないから毎夜毎夜暁を待っているのだ。だというのに何故朝は訪れないのか。
 多分、結末が恐いのだろう。朝が訪れれば否応なしに決定される選択肢が。つまりは続けたいのか。
 どちらともいえないが、考えている間に微風が雲を動かしていたようだ。降り注ぐ曙光! 灰は灰に!


拾陸『最後の青さ』

 先立つ不幸をお許しください、と。どうして私が死ななきゃならないのかというと、それは私が死にたいからという単純明快な理由があるからだ。その理由なんかどうでもいいじゃないか。学校の白い封筒の中に入ってるんだから。
 夜風が心地好い。顔にかかる髪を掻き上げ、緑色のフェンスによじ登る。遺書が右手の中で歪む。咥えていればよかっただろうか。しかし口紅のついた遺書というのも気色が悪い気がする。そうか私は今日も化粧をしている。
 ローファーの踵がはまったり外れたりして、フェンスを跨ぐ。風に捲れるスカートの裾を押さえて傾いだ。誰から隠すのだ。多分私は無人島でだって全裸にはならないのだろう。角に当たった内腿が痛い。早く済ませよう。
 屋上の縁に下りた。見下ろすと、コンクリートの地面が見えた。五階建ての屋上だ。死ねるだろう。踵の潰れた革靴を脱いだ。何で脱ぐんだ。履きなおした。でもこの風じゃ遺書が飛んでしまうだろうか。それは少し厭だ。ドラマのワンシーンでは、遺書に重石を載せていた。辺りに重石になりそうなものはない。脱ぐか。脱いだ。封筒の上に載せ、その横に立つ。
 結構恐いものだな。思わず唾を呑み込んでしまった。ふっと息を吐き、足を踏み出そうとしたところで追い風に煽られ、慌てて体勢を立て直そうと腕を振り、その拍子にローファーを蹴飛ばす。あ、遺書。
 風に舞った遺書を掴んだとき、私が何処にいたかはいうまでもない。まあ、達したのだ。


拾漆『茨の海』

 彼は独房の蒲団の中に居た。点呼も消灯も全てが済んだ後のことである。寝なければならなかった。今寝なければ明日に響く。明日に響けばどうなるか?
 寝息とも嘆息ともつかぬ呼吸が彼の口から漏れた。彼には既に第一審で判決が下っている。控訴も何もない。完全に肯定したのである。自供、証拠、証人。違えようもない有罪であった。
 彼はこれでいいはずだと思っていた。正しくなどなくても、彼はそれを望んでいたし、今更刑罰が恐くなったわけではない。聞いた話ではあったが、それ自体は然程苦しいものではないらしい。衝撃で首関節が脱臼し心停止したり、一瞬で脳が酸欠状態なって意識がなくなったりするようである。別段気持ちのよい話ではないが、苦しまずに一瞬で済むのなら、彼も死に恐怖などは感じなかった。もとより、彼は死ぬことで人に必要とされているのだ。勿論それが正しくなどなくても。彼に与えられたのは、豚のように死ぬか、藁のように死ぬかの二択のみである。
 しかしならば。彼はこの数箇月間自分を苛んでいるものの正体を思い、歯噛みした。法務大臣が。執行命令を出さないのである。何故か。死刑反対論者であるから。
 彼の今茫然と突き進む運命の始まる前から世間にそういう風潮があることを彼は知っていたが、それは彼の生活とは余りにかけ離れていたことであったため、彼にとっては瑣末事、知識として記憶し、時々否定的な意見(とはいえ、税金の無駄遣いになるな、程度のことである)を思い浮かべるに過ぎないことであった。今となっては彼らのエゴイズムに唾を吐きかけたいとさえ思っている。それまでの彼にとって、個人的に恨みがあるでもない一個人をその者の持つ思想のために憎悪すら抱くなど考えにすら及ばぬことであったことから、彼の数箇月間の苦しみが如何に悲惨なものであったか窺えよう。彼は持てる限りの全集中力を会ったことすらない(新聞で顔と名は知っている)法務大臣への憎悪へ廻すことによって日々の苦痛に堪えていたのだ。
 そんなことばかり考えていれば思考も徐々にネガティヴへ傾いてゆくものである。自ら志願したことであるから、自分をこんな境遇へ追いやった者を想うことこそすれ恨むことは出来ない。自然に矛先は自分に向かいだす。自己嫌悪に陥り、自暴自棄になったところで、日々は決まっていることに向けて延々と通り過ぎてゆくのみである。
 カラスの鳴き声で暁を知る。今日も何ら変わりはない朝だけが残酷に通過する。


拾捌『憂鬱』

 ある貧しい国に狂った独裁者がいた。彼は愚鈍な大衆が憎くてたまらず、彼らを根絶やしにしようと考えた。そこで極秘裏に効率的な毒薬を新兵器と称して開発させた。
 ところが開発の過程で偶然にも不治とされていた難病の特効薬ができた。良心的な若い化学者の幾人かがそれを先走って公表してしまった。大衆は歓喜して独裁者を讃えた。彼は憤慨して若い化学者たちを処刑した。時を同じくして特効薬の深刻な副作用が発見され、すぐさま発表された。それにやや遅れる形で処刑が報じられ、やはり大衆は独裁者に喝采を送った。
 独裁者は益々大衆を憎悪し、今度は核兵器より安価にできる大量破壊兵器を開発させた。
 丁度その発射実験を行っていたとき、一基が誤って発射されて空中爆発を起こした。弾頭の中の物質が化学反応を起こし、日照り続きの大地に雨を降らせた。大衆は狂喜して独裁者を崇めた。
 独裁者は猛り狂い、遂に自ら戦車を駆って市街地に出ると、狙いも定めずに砲撃した。その一発により多数の死傷者が出たが、調べてみるとそこは敵国のスパイや内通者たちの拠点であった。大衆は彼の英雄的行動に賞賛を惜しまなかった。
 今度は爆撃機に乗り込むや、市街を攻撃して回ったが破壊されたものは倒壊寸前のビルや金銭的な問題で取り壊しに困っていた建物ばかりであった。
 また彼は突然護身用の銃で部下を撃ったが、小口径の銃弾は狙い違わず虫歯に疼く彼の前歯一本を吹き飛ばしたに過ぎなかった。ガス室は栓が故障し、大衆浴場の風変わりな休憩所として親しまれることとなった。
 独裁者はノイローゼ状態で、遂に自身に銃口を向けた。
 一つの銃声と共に独裁政権は終わりを告げ、大衆は大いに喜んだ。


拾玖『暗い色の塀に届きそう』

 夜らしい。間延びした月を見上げて漸く気づいた。少しずつ遠ざかってゆく月は最早活字を浮かび上がらせるだけの力も持っていない。空気が悪いからかもしれない。
 立ち上がって電燈の紐を引く。かち。明滅が繰り返されている間に階段に腰掛ける。錆びた笠のついた裸電球はいつまでも点いたり消えたりを苛立たしい変則性を以って繰り返し安定しなかった。少し先の煉瓦の塀も又明滅していた。
 眩暈を堪えながら活字を見つめていると、明かりのついた瞬間に見える文字が段々と頭に入ってきた。
『暗い色の塀に』
 地面から丸で巨大な一つの手のように苔や黴が這い上がり、煉瓦を覆わんとしていた。白っぽい漆喰の目地は黒く染まり、赤褐色の煉瓦の上には黒や深緑の複雑な斑模様が形成されている。幾度となく現れては消えるその光景は何処か薄ら寒いものがあった。あの菌類どもは人の眼には分からずとも確実に侵攻を進めているのである。宛ら緩慢なスライドショーを観ているかのようだった。実際眼に見える変化はないに等しいが、生温かい風が背筋を撫で通ると、それらはこの世ならぬ者の蠢動を見させるのであった。
 本当に動いていないのであろうか。少し不安になってきた。見えないものは認識出来ない。認識出来ないということはその存在すら危ぶまれる。そこに『在るはずのないもの』が実は在るかもしれないのである。じわりと、菌類どもは動いていないとはいえない。陽の当たる塀の上でなくとも、他の場所へ動き出しはしないとはいえないのである。
 例えば、こちらに。


廿『寸で』

 包丁を手に取って、やめた。家庭用の包丁は人体のような大きなものを切るのには向いていない。
「やっぱアレか」
 彼は台所を出ると押入れを開け、中から工具箱を取り出した。暫く使っていなかったため、埃が積もっている。モップで埃を拭うと、蓋を開けて糸鋸とフレームを出した。刃は開封されてはいるもののビニール袋に入っていた。未使用だが長期間放置したせいで錆びついていたが、指の腹を押し当てた感じではまだまだ使えそうであった。
 フレームの螺子を緩め鋸歯を固定しようとして刃の向きに迷うが、遠い記憶を探ると、糸鋸は引き切りで使うはずだ、と思い出し刃を下向きに入れた。蝶螺子を締める。
 彼はこれから為そうとする極めて狂気的で冒涜的な行為とは裏腹に、実に気軽な足取りで廊下を歩き、隣の部屋のドアを開けた。その部屋にはベッドがあり、本棚があり、箪笥があった。無論向かうはベッドである。そこには彼の妻が寝ていた。
 近づいてゆき、蒲団を捲る。水色のパジャマを着た女の身体が皺になったシーツの上にあった。彼女は微かに眉を寄せるが、起きはしない。
 何処からだ。人体を輪切りにする最初の一刀目は。彼は少々神経質な性格であった。物事の順序を重んずることを信条とさえしていた。例えばプラスティック容器に入れられたスーパーのスシを中央のネタから取ることはまずないし、緩衝材の『プチプチ』を左の上端から潰してゆくことに何の疑問も感じなかった。つまり、いきなり腹から切り出すなどということは間違ってもしてはならないのである。
 例えば下端の脚ならどうであろうか。恐らくひと引きで目覚めてしまうだろう。それは避けたかった。では額。頭蓋を切断するのは骨が折れそうだし、真っ先に痛みで目覚めるであろう。
 彼の見出した折衷案は、首を切って出血多量に至らしめることであった。
「よし」
 糸鋸をぴたりと妻の首に宛がった彼は手に力を込めようとしたが、彼女は蒲団を奪われた肌寒さにより目覚めてしまい、彼の三年振り七十二回目の挑戦は敢え無く失敗に終わった。糸鋸をベッドの下に隠すと、妻が眼を開けた。
「あら、早いのね」
「うん、おはよう」


廿壹『アイ・バウト・トゥ・ブレイク・サム・ファッキン・オフ』

 重たい鎖が、俺が動くたびにじゃらじゃらと耳障りな音を立てる。金属が擦れ合う音をもう何日も聞きつづけていた。耳が変だ。寝ている間ですら鎖の音が聞こえる。身動ぎ一つしないでいるときでさえも。
 手首は枷に擦られて皮膚が破れている。最初の内は酷く痛んだのだが、今は痒くて堪らない。しかし両手はお互いが触れられない絶妙な位置で留められており、出血も厭わずにぼりぼり掻き毟ることすら出来ない。これを外したらまず擦れて蒸れた瘡蓋を掻き毟ってやる。俺は空腹も忘れて、そう考えた。
 この部屋が把握出来ない。光一つ入ってこないのである。僅かに風を感じることは出来るが、それは下水を流れる腐った風であった。
 真っ暗な部屋で、汚物臭い空気の中、両手を繋がれ、水も食料もなく、外からは何の音も聞こえてこない。一番耳障りな鎖のじゃらじゃら音以外は、心拍や呼吸や、筋肉や骨の軋みさえ騒音のように聞こえた。
 何日目だ。状況に何の変化もないために時間の感覚が全く麻痺している。見えはしないが首を手枷に向ける。これさえなければ。じゃらり。もう限界かもしれない。
 俺は腹を括った。このまま待っていても訪れるのは確実な餓死のみである。それならば、命と引き換えならば試してみる価値はある。
 じゃら。俺は腕を振り被り、鎖がぴんと張るまで力任せに伸ばした。ぎしり。手首に激痛が走る。俺は声にならぬ悲鳴を発したが、ここで躊躇うわけにはいかない。この痛みに堪えられなければ段階的に強くなっていく痛みに、最終的に襲ってくる最悪の痛みに堪えられるわけがない。腕を振り被り、叩きつける。何度も何度も。金属音と骨の軋みが繰り返される。腕が重いが、痛みで疲労を感じるどころではなかった。じゃら。ぎしり。じゃら。ぎしり。じゃら。ぎしり。じゃら。ぎしり。じゃら。ぎしり。じゃら。ぎしり。
 手枷の縁が角張っていたお蔭で地獄の作業は思ったよりも早く済みそうであった。顔を涙と汗が覆い、全身が、特に右腕が焼けつくように熱い。二つの音にはびちゃ、という音も混ざるようになった。じゃら、ぎしり、びちゃ、というように、である。じゃら。ぎしり。びちゃ。最後のそれは血の飛び散る音であった。血が飛び散ってコンクリートの床を叩く音であった。じゃら。ぎしり。びちゃ。じゃら。ぎしり。びちゃ。身体全体が重い。何日も何も口にしていないのだから当たり前である。意識が朦朧としてきた。これはいい。感覚が麻痺すれば痛みを忘れられる。
 その二つの動作を繰り返して何時間か経った。それはここに閉じ込められてからのどんな時間よりも長かったが、とうとう一つの段落が見えてきたようである。手指が動く感じがしない。粗方の肉は削げ落とせたようだ。荒い息をつき、次に深く空気を吸う。次は、骨だ。
 生木が燃えにくいのと似ているが、弾力が少ないだけ肉の部分よりは叩き折るのは簡単であった。時間も先程よりは短いように感じられた。気絶していた時間を除けば。
 俺は目覚めたとき笑みさえ浮かべていた。起きてしまえば今までのことは全て悪い夢になるのではないか。そんな甘やか夢を見ていたのである。そんな夢を叩き壊す激痛が俺を笑わせたのだ。
 手首から先は、どうやらもうぶら下がっているに過ぎないようである。最後の一回だ。俺は棒になっていうことを聞かない腕を何とか振り被り、振り下ろした。
 ぶつり。ぼた。じゃらり。何だかよく分からない筋が遂に切れて、俺の手首は宙を舞った。コンクリートの上に落ちた手首は一つの音を残して何処かに消えてしまった。
 右の手枷は、外れた。俺は今度こそ喜悦の笑みを浮かべた。は、は、は。短く、声に出して笑う。自重以外に何の負担もなく動く腕を振ってみる。軽い。同時に血を撒き散らしているらしくびちゃびちゃ音が止まなかったが、気にならない。
 目覚めた。頬に硬いものが押しつけられている。コンクリートらしい。顔を上げようと手をつき、叫ぶ。両手のあるべき位置から尋常ならざる激痛が走ったのである。
 両手が、ない。俺はやったのだ。気絶の前に。痛みに悶えながら、思う。自由になった。暫くのちに肘を使って起き上がる。時間はかかったが、何百時間か振りに俺は何の制約も受けずに立ち上がることが出来た。頭が熱く昏々するが、自由を勝ち得た喜びに勝るほどではない。
 俺は呆然としていたのだ。その作業に全精力を注いでしまったために、先が見えていなかった。次に俺は何をするべきか。出口を探すことだ。
 腥い風を辿る。恐らくは通風孔の類であろう。歩いてゆくと壁にぶつかった。この壁に穴があるのだ。俺は役に立たない眼を見開いて壁を探った。何か引っかかるものがある。風を感じる。穴だ! 俺は狂喜した。腕を使って慎重に調べると、それが直径五十センチメートルほどの穴に網で蓋がしてあるものだと分かった。通れるかもしれない。
 よし。その場に座り込み、足を使って蓋を外しにかかる。最前までの大作業に比べれば、そんな作業は苦にもならなかった。もとより浅く填めてあっただけであるらしいそれは、すぐに外れた。
 すぐさま頭を突き入れる。肩さえ通れば抜けられるはずである。通った。俺は喜びに打ち震えたが、一度戻り、何時間もかけて部屋の中を調べて廻った。
 幸いその部屋は大した広さではなく、全て調べ終えるには二時間もかからなかった。その途中、手枷と鎖にぶつかり、千切れ飛んだ自分の手を見つけた。俺はそれに食欲を覚えた。食べた。片手を食べ終わると、血眼になってもう片方を探し、見つけると貪りつく。酷く、美味かった。
 結局最初に見つけた穴以外の出口は見つからなかった。俺は空気を辿って穴に戻った。
 再び頭を突っ込み、全身を使って穴を進む。部屋と同じくコンクリートでできた穴は苔のようなものでぬめぬめと滑り、進みづらい。穴が少し狭くなった辺りで俺の頭を厭な考えが過ぎった。少し速度を落として進んでゆくが、どうやらそれ以上狭くなることはなさそうであった。
 この穴は何処へ続くのだ。単純作業の中でそんな考えが浮かぶ。恐らくは何処かの水路であろう。暗渠かもしれないが、今までの閉塞に比べれば何のことはない。
 這い進むこと、恐らく十数分。俺は穴の終わりに到着した。其処にも網が張ってあったが、その向こうには僅かながら明かりが見える。頭で網を押すと、それは殆ど何の感触もなく向こう側へ落ちた。がらん、と間延びした音がした。高さがあるらしいが、出ないわけにはゆかない。
 俺は這い進んで穴から顔を出した。そこは下水道であった。数メートル先には非常口の緑色が光っている。何かしらの施設があるらしい。にやにや笑いが止まらない。
 慎重に這い出し、ぎりぎりまで穴の縁に身体を引っかけ、頭を庇って落ちる。肩を強かに打ったが、今まで味わってきた苦痛とは比較にもならない。すぐさま立ち上がる。
 そこは通路らしかった。すぐ下を太い下水が流れている。ゆっくりと非常口に向かってゆく。そこには金属製のドアがあった。腕を使ってノブを廻そうと試みるも、施錠されているらしく開かない。壁を伝ってゆくと、梯子を見つけた。助かる。これは。断じて。登るしかない。
何度も滑落したが、出口がすぐ先にあると分かっているのに諦めはしない。幾度も挑戦し、遂に梯子を登りつめた。頭上にマンホールがある。その上からは、車の往来であろうか。唸り声のような音が聞こえてくる。
 もうすぐだ。俺はマンホールに頭を宛がうと、力一杯押し上げた。
 次の瞬間、眼前に広がったのは地上の喧騒であった。ネオンが眼に沁みる。やった、俺はやった。涙が溢れて視界が曇った。
 最後の力を振り絞ってマンホールを押し退け、地上に身を乗り出す。
 最後に聞いたのはクラクションと、自分の首がもげる音であった。


廿貳『執行猶予』

 蛍光灯の下を羽虫や蛾が乱れ飛んでいる。はだけたシャツの下の肌は湿気でべたべたしていた。夏至に近づいた空はまだ明るい。星に先んじた月が薄曇りの向こうにぼんやりと光っている。
 おれは炭酸飲料の空き缶を自販機横の色々なゴミで溢れた空き缶入れに捩じ込んだ。あの冷たさで味を分からせるためにどれだけの甘味料を使っているのか知らないが、口に残る後味の酷い甘さから鑑みてもそれがとんでもない量であることは分かる。
 今ので三本目だった。厭に咽喉ばかり渇くのだ。蒸し暑くはあるがそれほど汗をかくわけでもない。当然催してくる。夜中には腹も下すかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
 今なのだ。肝心な今さえ保てていればいい。咽喉が渇く。来ない。時間が経つほど咽喉が渇く。腹の中が重くなって、泣きそうなほど酷い気分になる。排泄を我慢しているときの気分に似ているが、例え済ませてきたからといって治まるものではない。原因が違うのだから。
指先が痙攣するほど破裂寸前の抑圧状態なのだ。暴れ出したい。隣で唸る自販機を叩き壊したい。しかしそんなことは解決にはならないし、無意味である。苛々する。
どうして来ないんだ。おれは携帯電話を開いて時間を確認した。約束の時間を十分余り過ぎている。これは暗に拒否されたということか。そう判断していいのか。しゃがみ込む。
 深呼吸をしようと眼を閉じた瞬間、肩に手が置かれた。
「うわあっ!」
 堤防は決壊した。


廿參『彼の失敗』

 理由は兎も角、おれは世界を憎むことにした。強烈な唯我論に襲われて、身震いせずにはいられない。そんなことはない。一人だったなら死んでいるも同じである。寧ろそれならば死んだ方が余程増しだ。
 おれは螺旋階段から地表を見下ろした。ここから飛び降りれば、まず死ぬ。しかしそれは安易な手段ではないか。おれはもう要らないのだ。葬り去ってしまいたいのだ。この世を消滅させたいのである。階段を下りる。空は素晴らしい快晴であった。
 おれも別段当てがあったわけでもない。漠然とではあるがそう易々と世界を消すことが出来るとも考えてはいない。それならおれは今一体何処へ向かって歩いているのか? 今にも蝉の喚き出しそうな炎天の下のことである。ニュースでは既にこの国の何処かでアブラゼミが羽化したと伝えられた。無常なるこの世の下で毎年夏は暑くなるしアブラゼミも生まれるのだ。人間も又この世の表層を常ならぬものと諦観しながら何千年も同じことを繰り返している。
 人通りが増えてきた。住宅街を抜けたのである。諦観した人間どもの群れに突っ込み、顔を顰める。何かが腐ったような臭いがする。それが身体に染みついてしまうような気がして、おれは道を逸れて路地に分け入る。ドブの臭いがする。胸がむかつくが人酔いよりは幾分も気分がいい。さて何処へ行くのか。ふと、足の向く先に机を構えた者がある。こちらを見ている。底抜けに明るくて厭な笑顔を向けているのである。机には『迷える子羊よ』と汚い字で書かれた紙があった。占い師の類であろうか。
「やあ」
 その男はひらひらと手を振ってきた。服装は黒いスーツと至って普通であるが、カールした長髪と伸び放題の髭が酷いミスマッチであった。
「人類皆殺しって顔してるねー」
 男はへらへらといった。おれは少しどきりとした。
「何だあんたは」
 男は机に貼った紙を指した。
「見てこれ。人生相談。まあ座んなよ」
 そういうと、机の蔭からスポンジの飛び出たスツールを出し、手招きをした。
 おれは暫し呆気に取られていたが、このまま歩いても詮無いだろうと、スツールに腰かけた。何を考えているのか分からないが、暇潰しくらいにはなるであろう。
「何なりと」
 男は机の上で手を組んだ。
「世界を滅ぼすにはどうすればいいかな?」
 おれは率直に訊いてみた。
「おー。ビンゴ。やっぱりそう思ってたでしょ」
 男はにこにこして拍手した。おれには何だこいつ、という感想しか湧かない。
「んーほんとそうだよねえ、ちょっと人間調子乗ってね? てカンジだよねえ、神様ヅラしちゃってさあ。自滅してくの観察するのもいいけど、やっぱ世界規模の大殺戮ってのもエキサイトだよねー」
 何度も力強く頷いて、喋りつづける。どうやらおれに口を挟ませるつもりはないらしい。
「ただキミ個人の力でとなるとねえ。ある程度組織立って行動しないと中々大量殺人ってのは難しいんだよね戦後の事例でもこの国じゃあ個人だと十数人で限界みたいだし戦前でもナントカ三十人殺し? ショボいよねあでも放火って手もあるかー大した規模じゃないけど一番効率いいかもね一人でやるにはでもまあ例えばホテル一棟で百人火炙りに出来たとしても一代で終えるのは無理だねでもキミ友達も恋人も居ないでしょ無理だねマジで人間が最も簡単に自滅する方法だったらやっぱ核だと思うけども無理だろまず一般人には。
結論をいおう。実現不可能だ」
 おれは黙って聞いていたが、男の肺活量に驚かされるばかりであった。方法が特殊なだけでいっていることは至極普通のことであった。おれはちょっとした奇人にであったに過ぎないらしい。ため息をつく。
「まあそう落ち込むなって。ねー。んあー、でもさあ、手っ取り早くキミが死んだらいいんじゃない? 簡単でしょ。ロープ一本とかで足りるし。死んだらこの世のこと何か気にしなくていいじゃん。生きるのが苦しいのは生きてるからだし。死ぬのが恐いのも生きてるからだし。世界を認識してるから世界を滅ぼしたくなるわけっしょ。キミが死ねばキミの意識はプッツンだ。キミの大ッ嫌いな世界に永久にサヨナラ出来るよ。どーよ」
 男は相変わらずにこにこしていたが、おれに自殺を勧めているようである。明快だ。
「なるほどね。ちょっとそこには思い至らなかったよ。元を断つってわけか」
 おれは久し振りに口を歪めた。男はおれの後ろを指差した。
「ほら丁度そこにロープがある。台はその椅子を使うといーよ。大丈夫。吊りは楽だから。後片付けはぼくがやろう」
 振り返るとビルの外壁を這うパイプには丈夫そうなロープがぶら下がっていた。いわれるままに、スツールを移動させて上に立ち、ロープに首をかけた。
「ああ、ところであんた誰だい」
「それは企業秘密だ」
 そういうと男は『どうぞ』という風に掌を向けた。おれはスツールを蹴った。

「あ! やりやがったなてめえ!」
 ビルの壁にぶらさがったものを見て、パンチパーマまがいの男が叫んだ。
「うはははは! 一足遅かったな。ぼくの勝ちだ! 今日もお前オゴリなー」
 長髪の男は机をばんばんと叩いた。
「これでゲヘナ行きはー、えー」
「三十二億七千九百十五万飛んで三人目だよ畜生。おれの解脱組は……」
「二十七億と五人でしょ。大分開いたねー」
「あー……やっぱ今日び悟りって流行んないのかね」
 パンチパーマもどきは頭の出っ張りを掻いた。
「だってめんどいじゃん。楽よ自殺」
 恨めしそうに長髪を見た。
「……やっぱおれが浄土でてめえがゲヘナってのぁ不公平じゃねえか?」
「キミ後輩じゃん。譲れよ。それにまだ人間は信じられるっていったのキミじゃないか」
 うう、と唸る。
「信じる者は救われねえじゃねえか」


廿肆『忍び寄ってきたと思った』

 それに形があるというのは、全くもって想定外だった。そして且つ不愉快なことだった。にやにや笑いを浮かべながら迫ってくる様は不快の一言に尽きる。勝てる気がしない。忍び寄ってきたと思ったら、どうやら一生側について廻っていたらしい。
「おれは、睡魔、だよ」
 ああやべえもう駄目だ俺、と俺は思い、目頭を押さえて首を振った。幻覚に話しかけられた。幻聴だ。幻覚が既に危険だというのに。ペンを置き、もう一度それを見直した。改めて見てもやはり居る。にやにや笑っている。
 俺は携帯電話のカメラ機能を試してみたが、そいつは写っていなかった。幻覚である。駄目だ俺。
「何だよお前」
「睡魔、だよ」
 開き直って話しかけた俺に、そいつは宙をふわふわと近づいてきた。睡魔が実体を持ったらしいそれは名状しがたい姿をしていた。芸術的といってもいいかもしれない。俺の妄想も捨てたものではないのかもしれないが単に病んでいるだけかもしれない。
「睡」
「分かったよ」
 それは俺の頭ほどの大きさだった。全身は黒と青と腐ったドブのような色が絡み合っている。十字に五つ並んだ眼は白目に当たる部分が薄赤く、又黒目の部分は異様に大きく、渦巻き模様を描いていた。口は猫のそれに似て、しかし髭の代わりに触覚が何本か生えている。耳は小さく、表皮には毛も皺もないが凹凸や用途の分からない器官が沢山あった。前肢というか腕は右にしかなく、しかも二本縦に並んでおり、上は二本に、下は七本に枝分かれしている。その先端にはそれぞれ三つの指があり、指先も無数に枝分かれし、その一つ一つに鋭い爪がついていた。それが槍のようなものを握っている。申し訳程度にぶら下がった脚には蹄がついており、関節が六つあった。それが平行に三対並び、めいめい勝手に蠢いている。尻尾も下がっていて、多角形の鱗がびっしりと生え揃い、先端には注射針のようなトゲがついていた。そしてピンクのリボンが結んである。なるほどこれが睡魔か。
 睡魔は槍のようなものを俺の頭に向けた。手元で何か操作すると、その穂先が開いて、縁が鋸歯状の器のような形になった。
「これで、穴を、開けるよ」
「うん? そうなのか」
 今までもこれは俺の頭を刳り抜いて眠気を齎していたのだろうか。それを初めて知覚出来るとは、中々面白い体験かもしれない。
「本当は、爪を、使うよ」
 睡魔はうにゃあといった。笑ったらしい。
「でも、今は、きかいを、使うよ」
 槍のようなものは機械であるらしい。睡魔は穂先の器を俺の額に宛がった。
「文明の、利器だよ」
 そうかい。と答えると、睡魔は又何か手元で操作し、穂先をぐるぐると廻転させた。頭に僅かな振動を感じる。そして壜の栓を抜くような陽気な音を聞いた。
 睡魔は機械を抜くと、今度は尻尾を向けてきた。先端には注射針とピンクのリボンである。俺は笑った。
「眠くなる、ものを、入れるよ」
「おう」
 蛇が鎌首を擡げるような動きのあと、注射針は俺の脳を突き破った。痛みはないが、頭蓋の中にジェル状のものを流し込まれているようだ。俺は眠りに落ちた。


廿伍『ライト・ナウ』

 シャット・ザ・ファック・アップ。俺はカウントダウンに向けて呟いた。厭な笑いを向けてそいつはカウントを続けた。
 人差指に力が入る。三。きつく眼を閉じる。俺は何で今こんなことをやっているのか。二。歯を食いしばる。奴の顔は真赤だった。とても素面には見えない。一。心臓の音が耳障りだ。俺の酔いは既に冷めていた――覚悟した。
「ゼロ」
 俺は引金を引かなかった。
「何で俺らオートマでロシアンルーレットしてんの?」

廿陸から伍拾>