Mind Fields : Act01
| 暗転。 この感覚は──何だ? 背中に、冷たく、固い何かの感触──この薬品の臭いは、診察台か? ──俺は眠っているのか。それとも起きているのだろうか。 眼を閉じているのか、開けている状態なのか? 意識が、はっきりとしない。 腕が、腕が動かない。 脚もだ。一体どうなってる? ──そうか、思い出した。俺は眠っていたんだ。“装置”を装着して── だとすれば、これは夢? 違う、これは夢なんかじゃない。 ──こ、この音は何だ? うう、耳障りな甲高い音がしやがる。 回転音? 一体何の回転音だ? 近付いて来る。 もう耳元まで、いや、眼のま── !! うわぁあああああアアアアアアッ!! 「......治療完了」 眼前を溢れんばかりの光が満たしている。 ──その日は彼の最期の日であった。 場所は、ある有名な病院の一室。周囲には薬品の匂いが漂い、医療のプロフェッショナル達が大声を上げながら、慌しく動き回っている。 だが、彼等が動き回りながらも注視していた機械がある反応を見せると、途端にその手足を止め始めたのだった。 「御父さん…!」 呼びかけに応え、既に霞みきった眼を開けると、そこには皺枯れた彼の手を握り締める壮年の男が居た。手の感覚すらなくなってしまったのか、その姿は眼で確認するまで気が付かなかった。 壮年の男は、彼の息子であった。息子の嫁、孫、その他にも彼の親族という親族がその場に居るようだったが、それを見回す力は、最早彼に残されていない。 「………。」 せめて最期に、最愛の息子の名を呼んでやろうと試みる。 しかし、彼の身体はそれすらも許してくれなかったのだった。 やがて、全身の力が抜けるような、否、柔らかい何かに包み込まれるような感覚が彼を満たし、そして── 暗転と静寂。 「……止めてくれ。コマンド、“停止”。」 「了解、スリープモードを解除します。」 暗く、黒く塗り潰された世界に、ゆっくりと光が差し込む。 夜の闇を拭い去る、日出を思わせるような輝きが照らすと、そこには清潔感漂う、一面を白一色に埋め尽くされた空間が広がっていた。床や壁と同じく、白系で統一された生活に必要な最低限度の──プラスティック製で凹凸が目立たない簡素な作りの──家具が整然と並んでいるが、その他に特に目立つようなものは置かれていない。だが、それ以前に、この空間には、最もありふれた物、と言うより、あるべきもの、なくてはならないものが存在していなかった。この空間には出入り口となる扉が見当たらないのだ。部屋と言わずに敢えて“空間”と言うのはその所為である。 その異様さに眼を瞑れば、“小奇麗な”という形容が当て嵌まりそうなのだが、そのような生温い言葉で言い表せない、何か、生命の存在を感じさせない、それこそ無菌室か何かのような閉鎖された雰囲気が漂う、不気味な空間でもあった。 その寒々しい感覚に反して、空間は人間が快適と感じる室温に調節されているようだ。 これで小洒落た音楽の一つでも流れていれば、少しは生活感が出て来るのかもしれないが、生憎、この空間ではごうごうという、聴覚を持つ有機生命体にとっては耐え難い苦痛でしかない、機械の放つ低周波特有の癪に障る振動音が壁の奥から定期的に聴こえて来るだけで、それは御世辞にも音楽と呼べるようなものではなかった。 空間の隅に配置された毛布も何も掛けられていないベッドに、独りの男が横たわっている。頑健な肉体の、若い男。身体にはぴったりと密着したスーツのような服を纏っていた。 最も眼を引くのは、その頭部に装着された、周囲の壁へと続く長いコードを何本も生やしたヘルメットであった。それは頭部と顔を覆い尽くし、男の視線はそれによって遮られてしまっている。 その装置から音を立てて勢い良く空気が漏れる。男はそれを両手で掴み、自分の頭を窮屈な機械から引き出し、その顔を露わにした。 顔に穿たれた二つの穴から覗くのは黄金色の瞳。精悍な顔立ちで、何処か神秘的な雰囲気を漂わせている。彼の頭部に毛髪は存在せず、代わりに、一風変わったデザインのヘッドギアを身に付けていた。 長い間、闇しか映る事のなかった瞳に、容赦なく差し込む光は酷く堪えるらしく、彼は思わず両手で顔面を庇った。彼の手首には小さな文字で番号を振られた、何か腕輪のような物が付けられていた。 「御目覚めはどうですか?」 抑揚の込められていない、機械で合成された声が空間に響く。上半身を起こし、低く呻いて高く両手を突き上げ、縮こまった身体を伸ばすと、彼は口を開いた。 「……悪くない。良くもないがね。」 未だ醒め切っていない眼を擦りながら、彼は付け加える。 「今回のは結構短かったな。」 「今回の映像は、二十二世紀初頭の、最も偉大な科学者と呼ばれた男のものです。映像が短かったのは、まだ医療レベルが大して発展していなかった時代ですから、彼自身の映像がそう長くなかった為でしょう。」 男の短いコメントに、懇切丁寧に解説を加えて応える“声”。 男には“声”が脳に代わる、何千という集積回路の集合体からなる電子の頭脳から成り──その電脳の中のたった一筋の通り道から導き出されたものと重々承知していたが、長い年を経て慣れてくると、そういったものにさえ愛着が湧くものである。 彼は成る程、といった様子で首を縦に振った。 「二十二世紀初頭か……。たった百十年しか生きられないわけだ。」 そう答えて、彼は両足を揃えてベッドから下ろし、床につけて立ち上がろうとする。しかし──彼の膝は彼のものではないかのように、彼の立ち上がろうとする意志を全く受け付けなかった。首を傾げて問題の起きた箇所を眺め、擦る。どうやら痺れはそれほど酷いものではないらしいと気が付くのに、そう時間はかからなかった。 ふと、彼の脳裏に奇妙な違和感が過ぎる。違和感というより、既視感であろうか。夢か現実か──どこかで一度体験した出来事なのだが、それをいつ体験したかなどの詳しい所までは、決して思い出す事が出来ない。 それは暫く間、彼の意識を一箇所に釘付けにしてしまっていたが、しかし、そのまま他の何もかもを投げ出させてしまうには程遠いものであった。 座ったまま手を伸ばせば届く距離にある、壁に設置されたパネルを操作すると、腰の高さほどの宙に浮いた淡い緑色の立方体が出現した。人工物では在り得ない、僅かなの歪みも狂いもない、真の意味での正方形。しかもそれは、そのような明らかに他の被造物とは異なる雰囲気を放ちながら、触れれば消え失せてしまいそうなまでに存在感が希薄なのだ。 人類の叡智の賜物、立体映像型ディスプレイである。これらは電力さえ十分ならば、壊れる事なく、半永久的に機能する事が出来た。 画面の端には西暦四千一年と表示されていた。 全身に血が巡り、行き渡っていく感覚。彼は漸く動くようになった両足に力を込めて、バランスを失って倒れる事のないよう十分に注意を払いながら、ゆっくりと立ち上がった。 傍らに転がる、頭部をすっぽりと覆い隠してしまう形状をした機械──記憶再現装置。人々はこれを“装置”と略称しているが、これは他人の記憶を電気信号に変換し、完全な映像としてそれを装着した人間の脳へ直接送るという、言ってみれば、“他人の生まれてから死ぬまでの人生を体感する事の出来る機械”である。 病原菌を全て駆逐した結果得られた、一世紀半に渡る寿命。 人類の曙以来、死を避けるべく、永遠の命の探求に専心した者は後を断たない。しかし、気の遠くなるような時間と手間を掛け、薬学、遺伝子学を極めて──果てはオカルト的なものに縋ってまでして──得られたものは、死を先送りする術だけであった。他にも、内臓を全て機械に置き換えてしまったり、小型の医療機械を体内に注入して老いの原因となるもの取り除かせ、健康を長期間に渡って維持させる技術などもその過程で生まれたが、人間にはどんなに自然から切り離されても本能というものは存在するようで、大抵それらは気味悪がられてそういった療法は主流には至らず、人々はほどほどの寿命を選択する形となったのである。 自然主義者たちの意に反して、人類は従来では考えられない程の長寿を得た訳であるが、彼等が蔑み、警鐘を鳴らしていた“そんなもの”に対して支払った代償はあまりに大きく、中には、手放せば二度と戻ってこないようなもの──生命そのものも含まれていた。 驚くべき医療技術により、死というものが霞んでいく一方で、人々の、死に対して得体の知れない恐怖を感じるという意識だけは高まっていた。 そんな風潮の中で“装置”は生まれた。 本来ならば人は生を受けてから、たった一つの人生しか歩む事しか出来ない。仮に、今までの記憶をきれいに洗い流し、完璧な整形手術を施したとしても、それは真の意味では別の人生を歩むという事ではないだろう。 最初、そういった複数の人生を望む者は少数であった。だが、全てに満ち足りてしまった人間たちの間で、それこそが最高の娯楽であり、“最も有意義な暇潰し”であるという考えが広まると、他の人間──他人の人生というものは最も興味を引かない存在でありながら、同時に、エキサイティングで、好奇心と羨望の対象となったのである。“装置”が再現可能なのはシステムが動き始めた後の、死人のデータ化された脳内の記憶だけであった。こういったデータ化を約束した者には生前に莫大な金額が支払われるので、データ化 を厭う人間は次第に減っていき、それに伴って投資家は増大、実験について試料に困る事がなくなったのも手伝い、近年になって──といっても既に三百年以上も経っているが──遂に実用化される事となったのである。 しかし、“装置”を通じて得られるのは他人の映像、感覚だけではない。というよりも、“装置”によって副作用的に得られた、“死ぬという体験”。自然の中でたった一度しか味わう事の出来ないこの感覚の為に、“装置”は凄まじい波紋を呼ぶ事となり、大量のデータが急激に脳内へ流入する事から引き起こすとされる問題も未解決のまま、“装置”は世間への浸透を加速させた。 怜悧さが感じられる眼差しでディスプレイを見つめる彼も、そういった考えを持った一人である。 「スリープ中に仕事はあらかた片付いたみたいだな。」 画面のあちこちを指で触りながら呟く。 と、彼の胴から気の抜ける奇妙な音が鳴り響いた。 「……安心したら腹が減ってきた。外で一年ぶりの朝食を取ってくるとするよ。」 「了解。どうぞごゆっくり。」 声が天井に埋め込まれたスピーカーから聴こえ、真っ白な壁面の一部がスライドし、欠けたような隙間が作られた。 白い空間から外世界へと足を運ぶと、感じ取れないほど傾斜は緩やかだが、常に下り坂兼上り坂が続く長い通路に出た。それに沿って張られた曇りのない硝子窓越しに、究極の暗黒とも呼べるような、真っ黒な空間が広がっている。黒の、光を吸収してしまうという性質から遠近感が掴めず、それは無限に広がっているようにさえ見えた。先程まで白一色の世界に居た身となれば、それは強烈な対比となり、尚更の事であったろう。白い部屋の中で常に響いていた振動音も、ここではあまり聴こえなかった。 その暗黒の中で、ぽつぽつと輝点が見られる。なかには目の錯覚かと思われるほど微小なものもあるが、視点を動かしていくと、光の爆発かというほどに輝点が集まって一つの更に大きな輝点を成し、それが闇を削り取っている様子も見る事が出来た。 彼はそれに対して少しも興味を持たないようで、硝子に沿ってつかつかと歩いていった。そうして暫く歩く内に、通路の脇にレールに沿って走る、運搬用と思しき乗り物が見付かり、彼はそれに乗って再び移動を始めた。 それらは彼にとって手慣れた行動であったのだが── 彼の身体に再び異変が起きたのである。 |
Act2>