時差

 唐突に一つの〈意思〉が存在していた。それは自らの形は持たず、概念的な意識をのみ持ち、その虚無に存在していた。〈意思〉はその真空のような虚無の中にいるただ一つきりの存在であり、その他にはそれの見渡す限り、どれだけの広さを持つのかも分からない、質量さえ持たない空間が広がるばかりであった。
 〈意思〉は暫くの間茫然と虚無を漂っていた。〈意思〉は自分が何者か、何が出来るのかもわからずに当惑していたのであった。すると不意に、それの意識の中に未知のものが現れた。それは形であった。〈意思〉はそれに強烈な憧憬を覚えた。どうしてもその〈形〉が欲しいと渇望すると、〈意思〉には形が生まれた。質量こそなかったが、〈意思〉は初めて自分の視覚に留まるものを得て満足した。
 しかしその満足はそれほども続かなかった。自分の〈形〉に見飽きてしまうと、〈意思〉は新たな形が欲しくなった。しかし今度は形だけでは満たされなかった。更に別の感覚を求めているのであった。
 それは質量であった。接触して楽しむことの出来るものである。そこで〈意思〉は次に、質量を欲した。すると様々な質量を持つものが虚無の中に溢れ返り、それによって〈意思〉はこの空間の大体の大きさを知った。
 〈意思〉はそれに触ろうとしたが、質量を持たない自分の〈形〉ではそれに接触することが出来ないことに気づき、激しい憤りを覚えた。
 すると虚無に満ち満ちた質量を持つものどもが動き出し、それぞれでぶつかり合って砕けたりぶつかった摩擦で溶けて繋がったりしだした。〈意思〉は最前の怒りも忘れてその混沌を楽しみはじめた。
 〈意思〉はそれだけでは物足りなく感じるようになった。それらの質量同士のぶつかり合いはそれの〈形〉に比べて余りにも小さ過ぎ、見慣れてしまうとほんの些細なものでしかなく、また煩わしくなってきたのである。〈意思〉はそれらの質量が繋がるところを見て、質量を持つものどもをくっつけて大きくしようと思い、ある一点に質量を集中させた。すると集まってきた質量はその中心部へ大きな衝撃を作り出し、全方向に拡散して巨大な爆発を始めたのである。
 〈意思〉は大喜びであった。ひと頻り笑い興じると、それは虚無であった空間を観察した。すると驚くべきことに、空間は飛散した質量に満たされ、更にその大きさはより膨大なものになっていたのである。
 〈意思〉は満足したが酷い疲労を感じ、興奮冷めやらぬままに眠りに就いた。

 〈意思〉が目覚めると、その空間は大きく様変わりしていた。空間には先程〈意志〉が作ったような質量の中心が無数に現れ、それに集中して無数の質量を持ったものの塊が生まれていたのである。
 〈意思〉は驚きながらも、思いもよらぬ展開に嬉々として、変化を遂げた景観を眺めて廻った。質量の塊はどれも一様に完全に近い球形であり、摩擦もされていないのに熱を発しているものもあれば、冷え切って沈黙しているものもあり、冷めゆく途中のものもあった。〈意思〉は暫くするとそのどれも似たような形が並ぶ景観に飽きはじめ、一つの塊を近くの同様のそれに衝突させてみた。すると小爆発が起こってその歪に砕けた破片が四方八方に飛び散り、同様の球体に衝突すると粉々に砕け散ったり、衝突された側の球体の大きさによってはその球体ごと破壊されて四散したりした。その四散した破片はまた他の球体へ衝突し、同様の反応を起こした。
 〈意思〉はその連鎖的な動きが気に入り、空間を動き廻って球体同士を衝突させる作業に没頭した。ひと通り満遍なくそれを終えると、質量の塊は、偶然動かされず衝突もされなかったものから順に様々な大きさになった。
 すると今度はまた、そこら中に質量の塊が溢れ返って煩わしく感じはじめた。〈意思〉は最初に作ったそれよりも少し小さく、弱い質量の〈中心〉を作り、それ一つにつき大体一定の数の球体や破片を集め、中心を軸に回転させた。それは思ったとおりに緩やかに回転を始め、中心付近にあった質量のあるものは纏まって中心で回転を始めた。
 〈意思〉はそのような渦を大量に作り、眠りに就いた。

 次に〈意思〉が眠りから覚めると、自分が質量を持って物体に触れないことに不満を感じるようになった。物体どもはそれの思いどおりに動くが、それ自身には視覚以外には何の干渉もなく、それはただ弄りまわすことに飽きはじめたのである。
 そこで〈意思〉は自分の代わりに質量と感覚を持って物体に干渉し干渉されるようなものを作ろうと思い立った。そこでまず小さな球体の一つを選び、そこへ恐ろしく微細な質量の塊を生じさせて〈形〉を作り、慣性や惰性ではなく自らの意思を以って動けるようにした。それは球体の表面に浮いた液体の中で動いていた。それはその、質量そのものである液体を、質量を以って掻き分けて動いたのである。〈意思〉は同じようなものを更に大量に生じさせた。
 小さな球の液体の中がひと通り意思を持つ質量体で満たされると、〈意思〉はまた急激に疲れはじめた。意思と〈形〉を持つ塊を作ると、〈意思〉はかなり疲労したが、塊はすぐに動くのを止めてしまうのであった。それが動きを止める前に大量のそれを満たすと、疲労は頂点に達し、〈意思〉は途端に眠りに落ちた。

 それは長い長い眠りであった。

 〈意思〉は眼を覚ました。そして傍らの小さな球体を見て驚いた。そこには無数の細かな、意思を持った塊が生まれていたのである。しかもその〈形〉は最初に作った塊とは似ても似つかぬ姿であり、無数の種類に分かれていた。その中には最初に〈意思〉が作った塊の姿もあったが、それは高い確率で他の塊に取り込まれていた。
 〈意思〉は非常な驚きを覚えたが、同時に強烈な興味をそそられた。塊どもは動くものも動かぬものも、皆一様に他の塊を取り込んで動いていたのである。それらは忙しなく呑み込んだり呑み込まれたりしていたが、一向に数が減らなかった。翌々見ると塊どもは最初の形の違うものも同じものもあったが、己から自らのの縮小形を分離させていたのである。それらはまた同じことを繰り返して大きくなると、動かなくなったり動き出したりしていた。
 疲労がまだ残っていたのか、〈意思〉は一瞬まどろみに落ち、ふと目覚めた。
 するとそこには新たな塊が生まれていた。それはこれまでいたものとは少し違う形をしていた。それらは意思を持たない質量体を持って、他のものを攻撃しては取り込んでいたのである。驚くべきことに、群れていたその塊どもは、別の群れの同種の塊に向かっても攻撃をしていた。またそれらの持つ質量体は攻撃しやすい形に変えられ、その塊はあっという間に小さな球体を席巻していった。
 〈意思〉は眠気など吹き飛んだ様子でそれを見つめていた。それらの動く周期が余りにも早いので、〈意思〉は懸命になって自分の時間をその塊どもに合わせようとした。多少は近づいたものの同じにはならなかったが、辛うじてその周期についてゆけるだけの早さには変えられた。〈意思〉は疲労を覚えたが、何とかそれを堪えて新たな塊どもの観察を続けた。
 塊どもは次第に量が増えだし、幾つかの別種の塊を球の上に完全に消滅させたりもした。塊どもは意思を持たない質量体の幾つかを用いて自らの〈形〉を覆うようになり、別の幾つかを使って様々な物体を造形するようになった。塊どもの群れは拡大され、拡大された群れ同士はしばしば互いに攻撃し合った。そのたびに無数の塊どもが動かなくなり、何れかがその場所を離れたり、群れに併呑されたりした。その規模もまた様々であったが、時を追うごとにそれは拡大していった。
 暫くすると、その攻撃は減少しはじめ、球体の上はまだ混沌としていたが、幾らかは秩序立った状態を作りはじめていた。
 あるとき大規模な攻撃の応酬が起こり、それに呼応するかのように球面の到るところで攻撃が起きだした。やがてある群れの一つから大きな質量体が飛び出し、それを攻撃していた群れの中に落ちた。するとそこで小爆発が起こり、その群れの殆どは死に絶え、やがて攻撃は収まった。
 最終的には塊は全体的に減少してしまい、〈意思〉はこの興味深い塊どもがその内消え去ってしまうのではないかと不安を覚えたが、それをよそに塊どもの数は順調すぎるほどに増え、攻撃の応酬が始まる前の量より多くなった。すると他の塊を取り込めなくなるものが出はじめ、一部の地域では次々に塊どもが動かなくなっていった。
 〈意思〉がそれを見つめていると、突然一つの群れの中から、最前に攻撃を終わらせたらしい物体と同じようなものが飛び出し、ある群れの中に落ちていった。それとほぼ同時にその群れからも物体が飛び出していき、最初に物体を放った群れに落ちた。
 その二つの群れは跡形もなく消え失せた。
 〈意思〉はまた不安になった。

 *

 男はベッドに横になり、死ぬのを待つばかりであった。男は眉間に深々と皺を刻み、苦悶に満ちた表情をしていたが、それは迫り来る死への恐怖ではないようであった。
「ああ、何たる……!」
 男は某国の大統領であった。彼は数日前の自らの決断に対して苦り切っていたのである。それは敵国との静かな反目の間に密かに開発されていた、最新兵器の発射スウィッチに対する決断であった。情報によれば敵国は自分の国から盗み出した技術によって同じ兵器を作っていたのだという。それはどちらが先にスウィッチに手を伸ばすか、その一点に絞られた問題であった。反目する二つの国は強大になり過ぎ、他の小国が介入する余地すらなかったのである。
 自分があのとき、スウィッチを押す指を躊躇っていれば、敵国の指導者が先にスウィッチを押していたであろう。彼はそんなことを考えた。自分が押さなければ我が国は一方的に負けて――
 しかしその結果、彼の国も敵国も、ほぼ同時に滅びてしまった。競争する両者がいなくなれば勝敗など全く意味を成さなくなるのである。争いの意味すら灰燼に帰してしまった。それが結果であった。その結果は尋常ならざる数の死者を出したという事実だけであった。敵国の指導者は国民と一緒に消滅し、男もまた他国の間では死んだことになっているであろう。彼は側近に送り出され、ただ独り無人島に作られたシェルターに移動してからスウィッチを押したのである。
 死者を裁くことは出来ないから、この一瞬の戦争は死者十数億という結果のみが残ったはずである。彼が余生を――あと数日か数週間の余生をこのシェルターで終え、自爆装置が作動しさえすれば、それは確固たるものになる。何せ証拠は何もかも消え失せてしまっているのである。
 男はそれを甘んじて、それがあのスウィッチを押したものの責務であるのだと思い、当初の計画通り自爆装置を作動させるはずであった。
 しかし途端に、彼は病に倒れた。誰も看病するものがいない孤島の、設備だけは揃えられたシェルターの中での出来事である。彼は自分の意思と無関係に迫り来る死に怯え、今も握り締めている自爆装置のスウィッチを押せないでいた。
 病が男を襲った途端、彼は過去を悔やみ出した。恐るべき弾頭を搭載したミサイルの発射スウィッチを押したこと、それによって敵国どころか自国の国民までを滅ぼしてしまったことに対して感じていた多大な罪悪感が、死を目前にして発露してしまったのである。
「ああ……」
 男は苦渋に満ちた顔を更に歪め、かつて信仰していた神の名を呟き、懺悔をし、祈りの言葉を唱えた。
「神よ……私はどうしたらよいのでしょう? このまま病で死ねば、それが報いとして足るのでしょうか? 私の犯した罪の重さは、私のような取るに足らない男の命一つで贖えるのですか?」
 それは殆ど自問めいた呟きであったが、それが呟き終わると、何とその部屋が神々しい光に満ちはじめたのである。驚愕に眼を見開いた男の前に、かつて崇めた神の子の肖像そのままの姿をしたものが現れた。
「……な、何と」
 〈神の子〉は光に包まれたまま眼を開き、慈悲深げな視線を男に投げかけた。
「き、奇跡だ……おお神よ……」
 男は涙を流し、手を組んでベッドの上に起き上がった。自爆スウィッチが存在すら忘れ去られたかのように転がった。
 それは口を開いた。
『男よ、あなたは大いなる罪を犯しました。それはあなたの命一つでは報われることなどなく、あなたは父なる神により地獄の炎に焼かれ、永遠の苦しみを受けるでしょう』
 男は衝撃を受けて蒼白な顔を歪めた。
「おお、では一体どうすれば……」
『あなたの罪は余りにも重いのです。だから何をしてもあなたが地獄へ落とされることは免れないでしょう。しかし、父なる神は慈悲深いお方です。神は息子である私に、あなたに授けるための力をお渡しになりました。この力で人々の苦しみを和らげてやりなさい。そうすればあなたは、この世界でどんなに苦しんだとしても、神の御許では苛まれることもないでしょう』
 そういうとそれは男にある力を与えた。それは他人の苦しみを自分に移す力であった。〈神の子〉が手を差し伸べると、男は立ち上がれるようになった。
『行きなさい』
 そういうとそれは光と共に消えた。男は暫しの間茫然としていた。自分の置かれた状況に戸惑っていたのである。しかし自分の身体に満ちる不思議な力を感じると、意を決してシェルターから出て、船に乗ると兵器の効力範囲――草木の一本も残らない範囲から外れた大陸に向かった。離れているとはいえ、新兵器の威力は甚大である。そこにも少なからぬ被害を及ぼしているであろう。
 数日かけて大陸に上陸すると、男は想像を絶する兵器の威力に愕然とした。上陸した場所の周辺は見渡す限りの荒野だったからである。この場所には大都市の港があったはずである。男は記憶にある地図を思い出したが、場所に間違いはなかった。敵国で開発された新兵器のシミュレーションは何度も見学し、その威力は計算済みであったはずであるが、これは全くの計算外の結果であった。専任の科学者はこの技術に時々誤差が出ると言っていたが、これほどまでとは流石に想定外である。同じ技術を使った自分の兵器が及ぼした結果を想像すると、男は薄ら寒さに襲われたが、人を見つけるために荒野に向けて歩き出した。
 何日か歩きつづけると、遂に男は生き残りの集まった難民キャンプを見つけた。
 キャンプに入ってゆくと、そこは怪我人や餓死寸前の者達で溢れ返っていた。そこかしこで、食料を奪い合う争いの喧騒が起こっている。男は痛ましげに眉を顰めた。
 男は一番近くで蹲っていた、怪我を負った老人に近づいた。老人は男を見上げる力も残っていなかったが、男が、
「立ちなさい」
 というや否や、いきなり元気を取り戻して立ち上がった。その代わり男は凄まじいまでの疲労感と身体中の疼痛に襲われたが、何とか倒れるのは堪えた。老人は信じられないといった体で男を見た。
「あなたは何者です?」
 男は苦しげに笑った。無理矢理の笑いではあったが、事実笑いたい気分であったのだ。彼の心中は誇らしい気持ちで一杯になった。
「神に仕えるものです」
 男は何度も感謝する老人を後にして次の苦しむ者に向かった。探すまでもなく、このキャンプに居る者は全部が全部何らかの苦痛に喘ぐ者達なのである。彼は兵器が齎した後遺症に苦しむ者や、飢餓に喘ぐ者、骨折した者や手足を欠損した者などを次々に治していた。そのたびに彼の苦痛は増幅され、部位が欠損して身体が削げていったが、奇跡を目の当たりにした者にとってその程度の苦痛はどうというほどのものでもなく、男は弱っていく身体を杖で支えて難民を治しつづけた。

 *

 〈意思〉は力を与えた塊の一つが他を助けてゆくのをじっと見ていた。〈意思〉は自らの思いつきに非常に満足していた。この塊が攻撃を止めさせることで、球体の上で起こる攻撃行為はいずれ全て治まるであろうと考えたのだ。そのために、すぐ動きを止めてしまうその塊に、永遠に動きつづけるための力をも与えたのである。
 そのせいか、〈意思〉はまた疲労感を感じていた。それはその経過にすっかり満足していたので、その結果が出はじめるころまでひと寝入りすることにした。あの塊と同じ〈形〉になって、それと対話出来たことは興味深い経験であったとも思った。

 *

 男の存在はたちまちの内に難民キャンプ中に知れ渡った。男が治して廻らなくても、それを求める者が勝手に男のもとへやってくるようになった。彼はそれが非常に有り難かった。自分の信じる神の威光が広まり、自分の罪も少しずつ贖われているような気がしていたし、苦しむ者が救われていく姿を見るのは悪いものではなかったが、その一番の理由は、彼に移された無数の人々の苦痛の蓄積が、既に彼の歩行すら阻害していたことであった。
 男が最初に苦痛を取り去った老人は、今では彼のために嬉々として働いていた。動けなくなった男は何処からか寄進された朽ちた安楽椅子の残骸に座り、次々にやってくる者から苦痛を吸い取っていった。
 視力を失った少女の苦痛を取り除いて盲目になった男は、あるとき何者かが乱暴に人々を蹴散らして進んでくる音を聞いた。
「なに、ごと、だ……?」
 彼は廻らぬ舌で呟いた。すると突然彼の顎が掴まれ、無理矢理に顔を上に向かされた。
「間違いない! こいつだ!」
 悪意に満ちた男の声が響いた。男は当惑した。その男が彼の名を叫んで質すと、男は全く忘れていた自分の名と職業を思い出した。彼は某国の大統領で、世界の人口の半分を減らした要因を作った男なのである。
「……そう、だ。わた、しは……」
 嘘をつくつもりもなかった彼は、事実を認めると襟首を掴まれ、顔面を殴打された。
「お前のせいだ! お前のせいで俺の家族は……」
 何度も殴打されるに任せていると――抵抗のしようもなかったのである――、周囲のざわめきが聞こえてきた。それは彼の名前であり、彼の役職であった。彼は、今までも人々の苦痛で堪えかねる思いをしていたのだが、更に辛そうに表情を歪めた。使命と思い定めたことの前に罪悪感が蘇ってきたのである。
 そこへ老人が割って入った。
「おやめなさい、この方は神の――」
「よ、いのだ」
 男は何とか手を上げて老人を押し退けた。
「わ、たし、は、そ、のためにこ、の、ちか、ら、をあたえ、ら、れたの、だ……その、むく、いの……」
 男は襟首が解放されるのを感じ、埃っぽい安楽椅子に沈んだ。その男は何も言わずに立ち去っていった。
 男はこれまでとは周囲の雰囲気が変化していることに気づいていた。彼が世界中の憎悪を背負った片割れであることは、最初の噂より倍も早く難民キャンプを伝わっていった。

 彼にかけられる言葉は感謝のそれだけではなくなった。時に彼は苦痛を吸い取るだけでなく、苦痛を与えられた。老人はそのたびに止めに入ったが、あるときを境に老人の気配は消えた。男は悲しくなったが、それ以上の苦痛に苛まれつづけていたために、他のことで涙を流すだけの余裕はなくなった。
 男は感覚が殆ど麻痺していたが、尋常ならざる苦痛が消えたわけではなかった。寧ろ病苦に喘いでいたころはどれほど健康的であったかしれないと思えるほどであった。男の身体は段々と襤褸切れのようになっていった。手足は最早殆どが欠損し、筋肉も脂肪も大半が削げ落ちて、至るところの骨が折れていた。しかし死ぬことだけはなかった。肺が破れて気胸を起こしていたが、どれだけ苦しみ喘いでも彼は生きていた。それどころか、絶え間なく訪れる人々によって苦痛は増えつづけていた。抵抗するつもりもなかったが、抵抗することも出来ない状態であった。
 何千何万の人から苦痛を受け取ったか分からないが、男は最早人間の形をとどめてさえいなかった。彼の知覚は今や痛覚だけになっており、後は意識だけが常に明瞭であった。
 徐々に人足は減りはじめたが、男は苦痛の余りに人々が触れるのさえ気づかずにいて、無論それが減りはじめたことになど気づきようもなかった。やがて、人々の行列は途絶えた。男はうち捨てられたのである。誰かが朽ちた安楽椅子に放火し、彼の身体のまだ燃える部分は焼き尽くされ、後には焦げた崩れかけの頭蓋骨のみが残された。
 男はまだ生きていた。生きてはいたがその意識は最早汚濁して、狂っていた。子供が彼に残った最後の身体である頭蓋骨を蹴って遊びはじめた。三、四回蹴ると、焦げた頭蓋骨は簡単に割れた。
「……か、みよ……」
 彼は生きていた。

 *

 〈意思〉は眼を覚ました。塊どもは平和を取り戻しただろうか、などと思い、〈意思〉は期待を込めて小さな球体を見た。
 そこには表面に爆発の跡だけが残った球体があった。

おわり

高校の文芸部部誌第三号『track with no fixed aim』に掲載。修正版。