くちなわの夜

 あたかも土に履き潰した草履を咬みつかれたかのようであった。しかし無論、踏み固められた地面が斯様な無体を働くはずもない。単に脚が止まったのである。
 はて――理然りねんは編笠を上げた。傾き過ぎた日輪は今にも山の端に呑み込まれんとしているし、急がねばならぬのは重重承知している。しかしその辻へ差しかかったとき、理然の脚は知らず知らず歩みを止めてしまっていた。理然は訝って眉を顰めた。疲れてはいるがまだ空腹ではない。腹の中身を思い、又顰める。
 見ると辻の中ほどに、一つ模糊とした陰が在った。理然は歩を止めた原因に気づいた。
「……御坊ごぼう
 陰が突如、人声じんせいを発した。理然は冷や汗が流れるのを感じたが、それが人であることを悟り、同時に安堵もした。
「斯様な場所で――」
 何をしておられる。そう訊ねようと歩み寄った理然を、陰は鋭く制止した。その動きから、理然は陰がこうべに傷を負っているらしいことに気づいた。
「如何なされ――」
「御坊」
 陰は押し被せて言った。
「……驚き召されるな……」

「――おッ、御主おぬし……ッ」
 暗がり――否、闇溜りが、その胎に含んでいた異物を吐き出した。理然は後退った。手にした錫杖が音を立てる。砂利が軋む。
「……な――」
 何者か。問いを呑み下す。
 蟠った夜から抜け出た陰は、異形であった。
「恐れることは御座らぬ」
 陰は一歩進んだ。理然は後退りかけて脚を止める。乞食こつじき坊主とはいえ、一度は仏道を歩んだ身ではないか。高高物の怪の一匹に、何を臆すことがあろう。そう、思ったのである。
 理然は己を恥じ、息を一つつくと、今度はその姿を真向から見据えた。
 襤褸を纏ったその形は、人のそれである。だが月光を反射する縦長の瞳や、体表に敷き詰められた黒っぽい鱗は、全く人の有し得るものではなかった。
「……御坊」
 咽喉を擦る耳障りな声。理然は二の腕に生じた粟を撫でた。それは人の形をした――頭から血を流した、くちなわであった。
「拙僧は……否、儂は理然と申す、見ての通りの乞食坊主に御座る。そなたは……何者か」
 上擦りそうになる声を必死に抑え込み、理然は問うた。それは長い首をもた擡げる。
「儂は、先刻御坊が殺して喰うた蛇に御座る。御坊がその錫杖で打ち据えた、小さな黒い……梢腹こづえばら枯助かれすけと申す蛇に御座る」
「何と……ッ」
 理然の面が、見る見る内に血の気を失った。
「し、仕方が……ッ」
 握り締めた錫杖が鳴る。理然は蛇の頭を叩き潰した、あの厭な感触を思い出した。
「仕方が……なかったのだ、儂は……」
「存じ上げて御座る」
 枯助を名乗る蛇は、抑揚の欠いた声で言う。「存じ上げて御座る。御坊が飢えに堪えかねて儂を喰うたことは、重重存じ上げて御座る。天然自然てんねんじねんの理は畜生が一番心得て御座る。儂は御坊に恨み言を申しに参ったわけでは御座らぬ」
「おお……」
 漏らすなり、理然は地に膝をついた。
「では……では何ゆえに……」
 子が、と枯助は答えた。
「……唯気がかりは、儂の一匹の子に御座る。未だ孵らぬ幼き我が子に御座る」
 枯助は思い出すように眼を細めた。
「我が妻はさきの月満ちたる夜に、ひやと申す女狐によりて取り喰われて御座る。独り卵を護り続けた折ゆえ、儂は御坊に抗う力すら御座らなんだ。儂亡き後に残された幼な子は、の女狐めのまなこには最早、無力に転がった滋養としか映らぬで御座ろう」
 理然は先刻腹に収めた蛇が非道く痩せ枯れていたことを思い出す。
「御坊。御坊に仏のみちが御座るなら、我が孵らぬ幼な子が、己が力で殻をば破る様、どうか見届けていただきとう御座る」
 それが、親の倫なれば――そう言うと、枯れ助は夜闇に消えた。

 理然は砕ける脚を叱咤して、もと来た道をひた走った。辺りの真闇は幾度もその脚を掬ったが、理然はその度に立ち上がっては駆け、先刻自らが枯助を殺し喰らった場所へ戻り着いた。
 そこには、喰い残した枯助の骨を銜えた大狐が腰を据えていた。冷である。冷は理然を一瞥すると、枯助の骨を噛み砕いて呑み込み、叢に巧みに隠されていた卵に前肢をかけた。
「な、ならぬ、ならぬぞッ」
 理然は冷に錫杖をも以って打ちかかった。
 叩きつけられた地面が血飛沫の如くに草葉や土を跳ね上げる。女狐は軽やかに飛び退き、にやりとして理然を見た。
「妙な坊主だねェ」
 冷は尻尾を振った。
「自分はててを叩ッ殺して喰った癖にサ。アタシだってお前さんだって同じようにかつえてるンじゃあないのかえ」
 それとも、咽喉もと過ぎればって奴なのかい――冷は嘲笑った。
「ぬ……」
 理然は唸った。錫杖を下ろしそうになり、慌てて面を上げる。
「……私事では御座らぬ。その、父親てておやとの約束に御座る」
 再び錫杖を振り上げる。二度、三度とそれを躱した冷は、理然は卵を避けてよろめいた隙を突いて、その咽喉笛に喰らいついた。
「ッ」
 声ならぬ叫びを発した理然は、懐から懐刀を抜き出すなり冷の腹へ切先を突き立てた。
 凄まじい悲鳴が上がり、理然が地に伏したときには、既に冷の姿はなく、唯点点と鮮血が、女狐の行き先を示していた。
 理然は嘆息して、卵を振り返った。それは月光に艶艶と輝いて、草の上に在った。息も絶え絶えに卵に手を伸ばした刹那、卵は動き出し、理然の見ている内に、もがきつつ殻を突き破り、黒光りする蛇の子が頭を覗かせた。紛うことなき、枯助の子である。
 理然はもう一度嘆息すると、眼を閉じた。

 おわり

2003年度T海大学学園オリンピック国語部門、二次選考にて奨励賞。修正版。