けむり
| 秋緒は甘い香りに眼を瞬かせた。鼻をくすぐる、昏々するような香りだった。色はなかったが、敢えて譬えるとすれば、淡い紫だろうか。それは紫煙という二文字が頭をよぎったからかもしれなかった。そうだ。それは煙草の香りだったのだ。 それも刹那に等しい間の眩暈だったらしい。一秒にすら数えられない狭間であったに違いない。秋緒はその香りを眼で追おうとしたが、その主らしい後姿は見分けられなかった。葉巻かな、と秋緒は思った。銀色の腕時計の針にずらすと、眼は七を指したそれを捉えた。ラッシュはまだこれからである。これから数え切れない人間達が、改札脇の窓口に座る秋緒の視界をすり抜けてゆき、そこから洩れた幾つかが、秋緒と薄っぺらく係わっていく。 顔を戻す。人。ダークグレイのスーツ。ネクタイの趣味が嫌いだ。だが顔に、気分が出てしまうほどに若くもない。ついこの間まで学生だったのが嘘のようだ。秋緒はふとそんなことを思ったが、すぐに『カンケーない』と打ち消す。それが今関係ないように、スーツの男は秋緒には関係なく、同じように秋緒がどう思おうが全く関係ないのだ。 頭はぐるぐると巡りながら、手は別の生き物のように動いていた。 用が済むと男は見る間に人込みへ呑まれた。礼などはない。それが当然とでも思っているのだろう。秋緒自身もそう思っていた。駅員はそうするためのモノであり、そういう記号でしかない。同じことが出来るのなら、機械でも構わない。機械に礼は言わないから、駅員にもその必要はない。ということになるのだろう。 『エガオデタイオウ』。その標語を引き伸ばして顔に貼りつけたような笑顔が、顔の筋肉を引き攣らせて中々放してはくれない。 無意識の内に益々機械めいてしまう。いつかは客の老婆に返された礼と笑みを受けて、引き攣る笑みは氷のようだった。 秋緒はスウィッチを押してから電燈が点くまでの間が大嫌いだった。何度も瞬いた挙句に、秋緒を暗闇から掬い上げたのは、無機的で冷ややかな蛍光灯である。息を止めてプールにでも潜って、底にある栓を抜いて、水面が下りてくるのを見上げているような、奇妙な気分で秋緒は、眉を目一杯顰めて灯りを見つめた。明暗、明暗、点いた。 いつでも逃げ出せるように? 秋緒は自分の、灯りが完全に点るまで靴を脱ごうとしない癖に初めて気づいたとき、思った。それも道理。違っても又道理だ。いずれにせよそれは、秋緒らしいといえば、秋緒らしいことだった。 秋緒は、窮屈なブーツを脱いだ。流行っているからと、友達に聞いたか、雑誌にでも読んだか、何とはなしに買ったものだった。最悪というほどではないが、快適というわけでもない。しかしその分脱いだときの解放感は大きかった。どうせ疲れているのだから、さほど影響しないことのようにも思えたし、終いにはそうやって考えを巡らせていることさえ億劫になって、秋緒は脚を引きずってリヴィングの電気を点けた。 鞄を置いて部屋着に着替え、化粧を落とすと、秋緒はベッドへ沈み込んだ。空腹ではあったが、疲れの方が先立ったのだった。頭からか何処からか、気力が抜けて失せてゆくような、痺れにも似た感覚が身体を篭絡して、毛布の中に押し込める。秋緒は溜息をついて、薄眼に、寝返りを打って、今朝の香りを思い出した。 葉巻か、などと考えていたのを思い返す。そんなわけないじゃない。葉巻を、周囲に香りを漂わせるほどに愛用しているような者が、普通の電車に、それもわざわざラッシュ時に乗るようなことは多分あり得ないだろう。もし已むに已まれぬ事情で何処ぞのお大尽か何かがあの駅を利用したとして、再び利用することもないだろうし、秋緒には何の係わりもないのだ。いずれにせよ。 ――いずれにせよ。 それも、どうでもいいことなのだろうか。自分は不確かで、漫ろなまま。 何、考えてんだろ。秋緒は目蓋の重みに任せた。 愚にもつかない、というべきか。とりとめもない子供じみた考えに取りつかれて、翌朝は散々なものだった。歩けば足をぶつけ、ドアを閉めれば指を挟み、シャワーを浴びれば冷水を被り、トーストなど見事な焦げ具合だった。 窮屈なブーツに足を押し込み、通学も併せればもう何年も歩いた道を行く。実家に居たころと比べれば幾らかは違うのだが、大差もない。少々無理をして借りたマンション。実家が駅と離れているわけでもなかったが、借りた当時はどうしても独立したかったような記憶がある。今では薄給から大金を掠め取ってゆく存在でしかないような気もしていた。イヤフォンの音楽から離れて、何やってんの、と思う。 考えは綺麗に滞る前に駅へ着き、すぐに霧散した。制服に着替え、朝礼を終え、窓口に座る。足下のストーヴが室内を完全に暖めるまで、窓は閉めておく。 いつもと違うことなど、何もない。ただ一つ、秋緒の心だけが何処かを漂っている。駅の始業時間が近いが、意識がどうにも定まらない。何気なく鼻に触れて、又あの匂いを思い出した。 疎らだった客の数が、同じ電車を目指す人々の群れで一気に増える。改札はせわしなく開閉し、秋緒の仕事が出来る。白い息を吐く眼鏡。鼻の頭を赤くした詰襟。颯爽と歩くヒール。手は別の生き物のように動いていた。 眼や鼻は、気がつくとあの匂いを追っていた。 但しそれは、何処にも見当たらない。冷たい空気に抱かれて漂ってくるあの甘い香りは、バス・ターミナルの汚れた空気に取って代わっている。秋緒は時々窓を、叩きつけるように閉め切ってしまいたい衝動に駆られたが、客数が減り、又増え、結局終業時刻までそれを我慢した。 名を知らない顔見知りの清掃員に会釈し、秋緒は窮屈なブーツに足を押し込めた。 その日はけたたましいアラームに起こさせることはなかった。休日なのだ。窓から差し込む、朝と昼との中間くらいの陽に起こされて、秋緒は蒲団の中で大きく伸びた。 食パンがまだ残っていたが、御飯を炊いた。具にするようなものがなかったので、葱だけの味噌汁を作り、少し焦がしながら玉子焼きを添えて、傍らに、何日か前実家から貰ってきた、多少しょっぱくなった浅漬けを置く。パジャマのまま形だけの朝餉を終え、インスタントだが珈琲を淹れた。 啜りながら、視点も意識も何処かへ置き忘れたように、三十分くらいを過ごした。そして秋緒は、急に立ち上がった。珈琲に入ったミルクの、甘い香り。頭の中で何かと重なる。幾つか記憶が掘り起こされ、又仕舞われる。セーターとジーンズに着替えると、コートを羽織って玄関に向かう。 草臥れたように首を折るブーツを見遣るが、秋緒は下駄箱の中から暫く履いていないスニーカーを出して、紐を結んだ。鍵。慌しく思い出して、脱ぎ散らかし、部屋へ戻って鍵を取り、舞い戻って靴を履きなおす。一瞬がもどかしい。そう思いながらブーツへ手を伸ばしかけた自分を見て、秋緒は苦笑した。 秋緒は早足で駅へ、通い慣れた道を歩いた。何を急いで、いや、何を焦っているのだろう。ちらほらと脳裏をかすめる思いは、無視した。窓口の同僚が意外そうな顔をする。何故だか無性に笑いたくなって、秋緒は顔を綻ばせて会釈した。意外さに眉を上げた顔が、視界から消える。ホームへの階段を下りて、丁度来た電車に乗った。空いていたが、座らずに座席とドアの境の手摺に凭れる。トビラガシマリマス。 一駅先で降りた秋緒は、先程よりは歩調を緩めて階段を下った。ブーツの甲高い足音とは違い、スニーカーでは殆ど音がしなかった。自分が勇み足で何へ忍び寄るのかは、忘れることにした。 改札を抜けた秋緒は、青信号を渡って向かいの通りにある”fall”の看板を目指した。煙草と、洋菓子を扱った店だった。そういう店は幾つか見たことがあったが、組み合わせの意味は知らなかった。それに今は別に、知りたくもない。 ”fall”には度々訪れていた。目当てはこの店のガトーショコラだ。秋緒は甘いものがそれほど得手ではなかったが、遊びに来た友達が買ってきてくれたのを食べてからすっかり嵌ってしまい、以来自らここへ脚を運ぶようになっていた。苦味と甘味を併せ持ったそれは、今思えばあの香りに似ていたのかもしれない。 ドアを潜ると、馴染みの店員の笑顔が秋緒を迎えた。いつもとは違い煙草のコーナーへ向かった秋緒を、意外そうな視線が送る。今日は、意外なことばかりだ。秋緒は色とりどりの缶や箱、或いは一本一本が包装された煙草、葉巻達に向き合って、思った。煙が、甘い香りの煙草ってありません? 秋緒は店員を振り返った。結構、ありますよ。暫し呆気に取られていた店員が、答えた。幾つか示された葉巻、シガーを手に取って、嗅いでみる。普段嗅ぐような、不快な香りではなかった。今までに葉を直接嗅いだことはなかったが、同僚や、客が喫煙コーナーに吐いた煙のように、避けるべき臭いではない。 最初に取ったのは、茶色い、菓子のようなパッケージのものだった。アメリカ産だと聞いて納得するような包装だった。しかし、それではない。次に、赤と白のパッケージ。違う。あたしが嗅いだのどれだ。 幾つか比べていくが、どれも違う。最後に手に取ったのは、黒いパッケージの、ドイツ産の葉巻だった。翌々見ると、どれもそれほど高額なものではない。眼にした限りなのだから、本当はピンキリなのだろうが、葉巻などというものはどれも高価なもののような印象を持っていた秋緒は、多少、拍子抜けした。 匂いを嗅ぐ。これ、かな。秋緒は首を傾げた。今までの中では、あの香りと一番近いような気がする。だが違うようにも思える。音や画像なら兎も角も、記憶から匂いを思い出すことなど、想像力の範疇を超えている。見つかりましたか。店員。 分からない。でもこれにするわ。秋緒は振り向いて笑った。 了 |