氷熱
| 私は、そこに何かを見た。 それは霧雨の中に佇む影だった。或いは、蔭か。翳りと言っても良かったかもしれない。それは視界には入っていたけれど、何かに遮られていた。それは鬱々たる雲天が落とした、憂いの一つだったのだ。 私は叩き付ける雨音に掻き乱された。 薄紅が笑う。彼方のようであって、その実、すぐ近くで蠢いている。唇が何かを象る。 雨音。 そうだ――私は思い出した。今日とよく似た陰雨に、溺れるように訪れた 瞳に酷似した墨色の薄物が張り付いて、あたかも白の上にもう一枚黒い膚があるようにも見えていた。私は眩暈を覚えて、呆けたように、どうしたのと訊ねた。この厭になるくらいの雨の中で、雨具も無く佇んでいるそれに、 雨音を聞くたびに、私は思い出す。それがどれだけ私を蝕んでいるのかが分かるのだ。それは腕を絡ませて青い煙を吹きかけた。したたる牙が膚をなぞり、幾度となく、破きかけるが、そこには紅い、蚯蚓腫れすら残らない。只透明な毒の軌跡が、涙の痕にも似て、膚の上に残されているだけだった。 脚の数を数えなくちゃ。私は隙を窺うが、私が寝ているとき、それは起きていて、それが寝ているとき、私は絶対にそこへ居られない。狸寝入りで、頃合を見計らって眼を開けると、そこには決まって開かれたその瞳がある。そうだ、眼の数も。 何週間か、何ヶ月か。少なくとも長い時間が流れた。壁に掛けたカレンダーは、まだ憂鬱を誘う紫陽花のまま。季節は、夏になった頃だろうか。北向きの部屋ではよく分からない。何処かで蝉時雨が遠雷めいて聞こえるのだから、恐らくは夏なのだろう。周りに眼が行き届かなくなっている。勤め先では、痩せたねと言われた。 私は洗面所の鏡の前に立った。鏡越しに眼が合い、それは梅雨みたいな笑みを送って寄越した。眩暈。鏡を見て又眩暈。 膚は蝋でできたように白く、 鏡の中でそれが近付いてくるのが見える。艶やかな笑みは、露ほどもあの雨の日を偲ばせはしない。否――眼だけは。その墨色だけは、一分たりとも揺らがない。それは底なし沼。私が嵌り込んで抜け出せない、泥濘。私はそれに絡め取られてしまったのだろうか。 あれは、何だろう。私は鏡の中で私を締め付けるものを顧みた。吸い込まれそうな深淵が私を覗き込んでいた。気圧される――絡め取られる。毒が、己が生存に欠かさないだけの獲物を捕らえるための毒が、私の舌を縺れさせる。私の身体は干乾びた虫の屍骸だった。 冷たい指が伸びてきて、私の瞼を下ろす。抗う。煙草の匂い。抗えない。 闇に紛れて私の首を這い廻るものがある。名状し難い感覚だった。くすぐられているようでもあれば、細かな、無数の針で突かれる苦痛ともとれる。いつだって私は瞼を開けられない。身動ぎは出来るから金縛りとか言う類のものではないが、何も見えないから焦燥する。手を伸ばすが何にも触れない。只湿気った空気を掴むだけで、夜風は生温く私を 気が遠くなる。私は額に手を遣った。それは ちくり。 眼を開く。昨夜の感触を思い出し、暑さによる汗の他に一筋の冷や汗を覚えた私は跳ね起きて、すぐ貧血に蒲団の上へ引き倒される。額に手を遣るが、膚は火照るくらいの熱を持っていた。夢かな。私は肌掛けにしているタオルケットで汗を拭った。夢だと好いのに。私は細った腕を見て呟いた。 顔を上げるといつもの笑み。唇が何かを象るのだが、私には読み取れない。それは冷たい身体を私に押し当ててきた。 網戸のままのベランダから蝉の断末魔が聞こえる。それは長い爪で指して私を促した。顔を向けると網戸の向こうで、一匹の毒々しい彩色の蜘蛛が、蝉を巣に絡め取ったところだった。私は下を向いてから、面を上げて あなたは――私は呟きめいて問うた。あなたは、何なの。それは一瞬呆気に取られたような顔をしたが、クッと咽喉を鳴らして、それから凄艶なる笑みを見せた。 唇が何かを象る。 ドアを開けると真暗闇。夜闇に煙草の火が映える。鳴き遅れたかのような夜に不釣合いな蝉の声も、今夜に限っては何も聞こえない。後ろ手にドアを閉め、施錠する。脱ぎ散らかした高いヒールの靴は、骨張ってきた足には非道く窮屈だった。素足になって床に降り立つ。 電燈のスウィッチに手を伸ばすと、 私を覗き込む瞳は、さながら落とし穴だった。 そう、そうなのだ。遍く答えはその眼の中に、結論など端から眼の前にぶらさがっていたではないか。冷たい身体は私を殺した。私は最初から、あの雨の日からそれに、たった今私を貪るそれに、絡め取られていたのだ。 しなやかな糸が朧なる月光を纏った。縺れた舌が、それの唇が象った意味を紡ぎ出す。痺れた頭にそれの意味が収斂してゆく。 そう、あなたは――私は呟き、それは優しく笑った。 そう、あなたは、 終 * |
2003年度T海大学学園オリンピック国語部門に応募。一次選考合格。
作者はをんなだと思われていた。