氷熱

 私は、そこに何かを見た。
 それは霧雨の中に佇む影だった。或いは、蔭か。翳りと言っても良かったかもしれない。それは視界には入っていたけれど、何かに遮られていた。それは鬱々たる雲天が落とした、憂いの一つだったのだ。
 私は叩き付ける雨音に掻き乱された。


 薄紅が笑う。彼方のようであって、その実、すぐ近くで蠢いている。唇が何かを象る。
 雨音。
 そうだ――私は思い出した。今日とよく似た陰雨に、溺れるように訪れた存在それを。私はそれを見出したとき、抗いもせず息を喰らい殺された。雨の景観に呑まれたそれは、何処か遠くを見るような眼をして、それから緩やかに、こちらを向いた。夜闇にも勝る双眸は瞬く間に私を絡め取った。罠か。私は思った。それはしなやかに私を掌握した。それは笑った。私は傘を差しかけていた。
 瞳に酷似した墨色の薄物が張り付いて、あたかも白の上にもう一枚黒い膚があるようにも見えていた。私は眩暈を覚えて、呆けたように、どうしたのと訊ねた。この厭になるくらいの雨の中で、雨具も無く佇んでいるそれに、理由わけを訊ねるのなど野暮の極みと言うものだったが、私の咽喉からは荒地のように、言葉が枯渇していたのだ。それは一瞬虚を衝かれたような顔をしたが、数拍を置いて、凄艶に笑んでみせた。雨、と彼女それは言ったのだと思う。雨が、やまないから、と。墨色が瞬いて、長い爪で傘の柄を掴んだ。消えて久しく濡れそぼった咥え煙草が、薄紅から零れる。及ばない、及びも着かないと、その面とその眼に映る自分のそれを見比べる。温みの無い金属から下りてきた手は、雨粒よりも冷え冷えと、私の膚を粟立たせた。
 雨音を聞くたびに、私は思い出す。それがどれだけ私を蝕んでいるのかが分かるのだ。それは腕を絡ませて青い煙を吹きかけた。したたる牙が膚をなぞり、幾度となく、破きかけるが、そこには紅い、蚯蚓腫れすら残らない。只透明な毒の軌跡が、涙の痕にも似て、膚の上に残されているだけだった。
 脚の数を数えなくちゃ。私は隙を窺うが、私が寝ているとき、それは起きていて、それが寝ているとき、私は絶対にそこへ居られない。狸寝入りで、頃合を見計らって眼を開けると、そこには決まって開かれたその瞳がある。そうだ、眼の数も。


 何週間か、何ヶ月か。少なくとも長い時間が流れた。壁に掛けたカレンダーは、まだ憂鬱を誘う紫陽花のまま。季節は、夏になった頃だろうか。北向きの部屋ではよく分からない。何処かで蝉時雨が遠雷めいて聞こえるのだから、恐らくは夏なのだろう。周りに眼が行き届かなくなっている。勤め先では、痩せたねと言われた。
 私は洗面所の鏡の前に立った。鏡越しに眼が合い、それは梅雨みたいな笑みを送って寄越した。眩暈。鏡を見て又眩暈。肋骨あばらが透かせる。元々太ってはいないが、痩せ過ぎと思ったことも、言われたことも無かった。今の私は、罷り間違えば餓鬼のようだった。頬が削げた。顎も細過ぎる。二の腕の脂肪が殆ど無くなってしまっている。
 膚は蝋でできたように白く、黒髪との対比コントラストが逆に何か法則めいて私を飾り立てている。陽射が私を避けているとでも言うのだろうか。嘘――私は呟いて頬に手を遣った。
 鏡の中でそれが近付いてくるのが見える。艶やかな笑みは、露ほどもあの雨の日を偲ばせはしない。否――眼だけは。その墨色だけは、一分たりとも揺らがない。それは底なし沼。私が嵌り込んで抜け出せない、泥濘。私はそれに絡め取られてしまったのだろうか。
 あれは、何だろう。私は鏡の中で私を締め付けるものを顧みた。吸い込まれそうな深淵が私を覗き込んでいた。気圧される――絡め取られる。毒が、己が生存に欠かさないだけの獲物を捕らえるための毒が、私の舌を縺れさせる。私の身体は干乾びた虫の屍骸だった。
 冷たい指が伸びてきて、私の瞼を下ろす。抗う。煙草の匂い。抗えない。


 闇に紛れて私の首を這い廻るものがある。名状し難い感覚だった。くすぐられているようでもあれば、細かな、無数の針で突かれる苦痛ともとれる。いつだって私は瞼を開けられない。身動ぎは出来るから金縛りとか言う類のものではないが、何も見えないから焦燥する。手を伸ばすが何にも触れない。只湿気った空気を掴むだけで、夜風は生温く私をねぶるだけだった。
 気が遠くなる。私は額に手を遣った。それは彼女それのように死人めいて冷ややかで、私は思わず手を引いた。腕に粟が生ずるのが分かる。
 ちくり。


 眼を開く。昨夜の感触を思い出し、暑さによる汗の他に一筋の冷や汗を覚えた私は跳ね起きて、すぐ貧血に蒲団の上へ引き倒される。額に手を遣るが、膚は火照るくらいの熱を持っていた。夢かな。私は肌掛けにしているタオルケットで汗を拭った。夢だと好いのに。私は細った腕を見て呟いた。
 顔を上げるといつもの笑み。唇が何かを象るのだが、私には読み取れない。それは冷たい身体を私に押し当ててきた。
 網戸のままのベランダから蝉の断末魔が聞こえる。それは長い爪で指して私を促した。顔を向けると網戸の向こうで、一匹の毒々しい彩色の蜘蛛が、蝉を巣に絡め取ったところだった。私は下を向いてから、面を上げて彼女それを見た。それは嬉しそうに笑っていた。
 あなたは――私は呟きめいて問うた。あなたは、何なの。それは一瞬呆気に取られたような顔をしたが、クッと咽喉を鳴らして、それから凄艶なる笑みを見せた。
 唇が何かを象る。


 ドアを開けると真暗闇。夜闇に煙草の火が映える。鳴き遅れたかのような夜に不釣合いな蝉の声も、今夜に限っては何も聞こえない。後ろ手にドアを閉め、施錠する。脱ぎ散らかした高いヒールの靴は、骨張ってきた足には非道く窮屈だった。素足になって床に降り立つ。
 電燈のスウィッチに手を伸ばすと、彼女それはそれを制した。何なの。私は漫ろに問うた。それは柔らかに笑った。タバコ臭いわと押しのけ、上着やら鞄やらを投げ出して、一人掛けのソファへ倒れ込む。そこにまで煙草の匂いが染み付いてることに気付き、恨めしげにそれを見上げると、それは薄笑みを崩さないままに私へ凭れかかった。そうか。私は思った。これは血の匂いだ。
 私を覗き込む瞳は、さながら落とし穴だった。彼女それ存在それ自体が私を圧倒的な力で惹きつけるわな陥穽なのだ。私は地獄の淵を覗いたような気分になり、同時にその底で、垂らされた糸を掴んだカンダタの気分をも味わった。
 そう、そうなのだ。遍く答えはその眼の中に、結論など端から眼の前にぶらさがっていたではないか。冷たい身体は私を殺した。私は最初から、あの雨の日からそれに、たった今私を貪るそれに、絡め取られていたのだ。
 しなやかな糸が朧なる月光を纏った。縺れた舌が、それの唇が象った意味を紡ぎ出す。痺れた頭にそれの意味が収斂してゆく。
 そう、あなたは――私は呟き、それは優しく笑った。

 そう、あなたは、絡新婦じょろうぐも



   *

 絡新婦らくしんぷとは女郎蜘蛛のことだが、絡新婦じょろうぐもは妖怪であるともいう。絡新婦は、昼間は美女の姿であるが、夜になると蜘蛛の本性を現す。小さな蜘蛛になる青い煙を吐き、人に取り憑いてはその生き血を吸うのだと言われる。

2003年度T海大学学園オリンピック国語部門に応募。一次選考合格。
作者はをんなだと思われていた。