一つの国があった。その国は平和そのもので、争いや憎しみ、悲しみや病などは全くなかった。それゆえ〈負〉を持たない人人は、毎日笑顔で暮らしていた。
 その国の空、暗雲の中に、一つの悪鬼の姿があった。悪鬼は遥か昔に〈彼方〉へと追いやられた〈負〉どもが凝り固まった塊であった。悪鬼は平和な下界を酷く妬ましく思っており、〈負〉を捨てた人々を憎んでもいた。
 そこで悪鬼は考えて、自分の乗っている暗雲を千切って捏ね廻し、真っ黒の箱を造り上げた。その箱は一つの面だけが開いていた。悪鬼は開いた面を下にして、狙い済まして暗雲の上から投げ落とした。箱は黒く尾を引いて、平和な国へ落ちていった。
 落ちてきた箱は寸分違わず、畑を耕していた男の頭に被さった。額に汗を光らせた男は、丁度今日の夕飯に就いて考えていたところで、少しばかりぼんやりしていたものだから、突然に視界を奪われ、いたくうろたえた。訳もわからぬままに持っていた鍬を振り廻していると、男の隣人が、それに気づいて近寄ってきた。
『おいおい、どうしたんだい』
 男には何も見えなければ何も聞こえてもいなかったので、近づき過ぎた隣人は鍬で頭を割られて死んだ。男はその感触に驚いてますます慌て、自分の視界を奪ったものを外そうとして、鍬をそれに目掛けて振り下ろした。男は自分で自分の頭を割って死んだ。
 それを暗雲から見下ろしていた悪鬼は、箱の効き目に大満足だった。悪鬼は同じような箱を幾つも造って、次々に平和な国へ投げ落とした。
 黒い箱を被せられた人々は皆同じようにうろたえ、慌てた。平和な国には〈不安〉などというものはこれまでに全くなかったのである。視界を失った人々は押し合いへし合い、井戸に突き落とされたり、突き落としたものが突き飛ばされたり、倒れた者が踏まれたり、倒れた者にけつまずいて倒れたり、積み重なったり、押し潰されたり、ぶつかり合ったり、蹴り飛ばし合った。
 調子付いた悪鬼はどんどん箱を造って投げ落とした。箱が落ちれば落ちるだけ平和な国は混乱していったが、悪鬼は自分の乗った暗雲がなくなりそうなのにも気づかず、暗雲を千切って箱を造りつづけていたので、全ての者が箱を被せられるころにはそれを使い切り、悪鬼はまっさかさまに平和な国へ落ちていった。
 悪鬼の落ちた先は、箱を被せられて慌てる、一人の女の上だった。ぶつかった弾みでその女の被せられた箱が割れ、正気に返った女は地面にのびた悪鬼の姿を見て仰天した。
『まあたいへん』
 女は箱を被せられた人から箱を外していった。正気に返った者は他の者の箱を外してやり、そうして人々から箱が外れると、彼らは悪鬼を囲み、寄ってたかって叩き殺した。
 こうして、〈負〉が帰ってきた。

おわり

高校の文芸部部誌第二号に掲載。